実相 心癒力―身体の痛みを治す本当の力とは
坂本幸嗣/著

出版社名:現代書林
出版年月:1996年10月
ISBNコード:978-4-87620-919-4
税込価格:1,258円
ページ数:198P

目次

はじめに―わたしの指先が“痛み”の真因を感じとる

第1部 「心」が身体の痛みを癒す

第1章 痛みを癒す「心」の会話―坂本整骨院日誌より―

・本人も忘れていた肝臓のトラブル
・身体が《甘いものキライ》と言っている
・気がつかないうちに悪くなっていた心臓
・O脚が治っておおよろこび
・身体に触れずに痛みが消えた
・患者さんの身体の声を伝える
・体質と薬の相性がわかるOリングテスト

第2章 身体の大黒柱「背骨」が健康を支えている

・背骨は「人間らしさ」の中心軸
・姿勢のクセや疲労から生じる背骨の歪み
・”背筋がピン”は若さの証明
・背骨から出る全身の神経ネットワーク
・腰痛はきちんと治しておきたい
・「たかが肩こり」と甘くみてはいけない

第3章 「心の健康」が根本にある

・心が痛めば身体も痛む
・「心の余裕」が「心の健康」
・夢を実現する歓び
・子供を蝕む過剰な期待
・ストレスを運動エネルギーに変えて解消する
・ストレスの原因を見つけることが大切

第4章 健康の「本質」を得るために

・挑戦する勇気こそが宝
・実感した「見えない世界」の存在
・”悟り”を求めてたった一人の山ごもり
・法華経との運命的な出会い
・「諸法実相」の教えで確立した人生観
・心と身体は一つのもの
・心のあり方で人生は変わる
・患者さんの身体が答えてくれるようになった!
・「本質」と「本質」が応え合う
・誰にもある「本質」を知る力

第2部 気をつけたい「痛み」への誤解と早合点

第5章 これだけは知っておきたい健康の知恵

・「冷やす」か「温める」かで治り方がまったく違う
・温泉療法の落とし穴に注意!
・心臓の調子はいつも自分でチェックしておきたい
・血行の良さは健康のバロメーター
・「楽しい」ことが健康の条件
・「無理」をしない。でも「大事」にしすぎない
・ムチ打ち症にはコルセットはしないほうがよい
・早い時期に専門医の治療を受ける

第6章 「スポーツで不健康」にならないために

・求められる指導者の判断
・筋肉の疲労回復を早める方法
・筋力強化は「超回復」を利用する
・日常の姿勢バランスの矯正から始めよう
・怪我や故障をプラスに変える

第7章 家庭でできる「一日でも早く治す」ためのちょっとしたケア

・腰痛
・肩こり
・五十肩
・膝痛
・テニス肘
・寝ちがえ
・外反母趾

おわりに―「天の気」を身体いっぱいにとり込んで

はじめに―わたしの指先が痛みの真因を感じとる

私は正直な気持ち、この本を単なる治療の解説書にはしたくありませんでした。

治療の解説書として出せば、読者の中には私の治療に共感し、ぜひ診てほしいと思われる方が出てくるのは当然で、来院される方も増えることでしょう。

しかし現在、私は手一杯の状態です。

この本は、読まれた方が今一度、「心と身体」について考え、皆さん一人一人が本当の意味で健康になっていただきたい、人生は歓びなんだということを考えていただきたいと願って書きました。

たとえ身体に病いはあっても、心がそれにとらわれず、自分自身は何のためにこの世に生まれてきたのかを考えていただきたいのです。この「身体の痛み」も「病い」も、ただではないありがたい一つの気づきなのです。

そして、読んでくださった皆さん一人一人の「本質の魂」に、新しいエネルギーを注入したいと願って書きました。

「本質の魂」といいましたが、人間は本来、この世の中で何かの役に立ちたいと思っているのが本当の心なのです。いかにきらわれ口をきこうと、そっけない素振りをしようとも私たち「本質の魂」はいつも向上したいと願っているのです。

ところが病いや痛みが身体に現れると、そのことで頭がいっぱいになってしまい、「この病気さえなければ、この痛みさえなければ」と思い、「本質の魂」のことなど忘れてしまうのです。

そのため、痛みや病いを治すことが人生の目的となってしまうことが多いのです。

また、私たちは、知らず知らずのうちに、いろいろな”心の痛み”をもっています。

この心の痛みが、病気や身体の不調を引き起こしていることをご存知でしょうか。

自分の中にどのような心の痛みがあるか、それに気づき、心の健康を取りもどすように努力すれば、私たちはもっともっと快適に生きられるのではないでしょうか。

これまで以上に自分らしく生きられるにちがいありません。

私は整骨師として二〇年間、たくさんの患者さんと接してきました。

患者さんの訴えのほとんどが「痛い」ということです。腰の痛み、肩の痛み、腕や指先の痛み、足の痛み……なかには痛みのために自分では歩けない患者さんも来ます。

肩こりひとつとっても、”肩がこっている感じ”のうちは、まだ治療院に行こうという気にはならないでしょう。ところが、肩のこりがひどくなると首から頭にかけて重く固まったようになり、頭痛がしたり、腕を動かすのもつらくなってきます。

そうなると「肩がこって痛い」と言って、治療を受けにいらっしゃるわけです。

こんなとき患者さんのいちばん求めていることは”痛み”をとってほしいというものです。痛みさえなければ「たかが肩こり」となってしまうのです。しかし、ひどい痛みが出て、日常生活も不便になってくると、そんなことはいっていられなくなるのでしょう。

「先生、痛いねん。なんとかして」

私もなんとかして、すぐにラクにしてあげたいと一生懸命になります。

いつのまにか、心の中で、

(どうぞ、早くラクになってください)

と念じながら治療をしている自分に気づきました。

すると、痛みが早くとれることがわかったのです。

念じることなく、

「ああ、ここですね。筋肉が張ってますね」

と患者さんの痛いというところをマッサージしたり、背骨の調整をしたりしたときよりも明らかに患者さんがラクになるのが早いのです。

これは何かある。そう思いました。患者さんを(早くラクにしてあげたい。すぐに治してあげたい)と念じるときに、何か目には見えない力が、患者さんと私の手の間に通じることを実感してきたのです。

花や野菜を育てている人の中には、毎日水をやりながら、

「きれいに咲いてね」

「おいしい実をたくさんつけてね」

と話しかけているという人がいます。優しく声をかけながら育てていると、確かにきれいな花が咲き、おいしい野菜が実るといいます。

おそらくその人の心が、花や野菜に通じていくのでしょう。

樹の幹に耳を当て、樹の声を聞くことができるという人がいます。「樹の気」と交流するのだといいます。

花や野菜、樹に心が通じるのなら、人間の身体にも心が通じないはずがありません。

患者さんの身体に、

《早く治ってね》と声をかけたら、きっと応えてくれるにちがいない。私はそう考えたのです。

《早く痛みが消えてください。こりが取れて、ラクになってください》

そう患者さんの身体にお願いしながら、毎日毎日治療を続けて来ました。

患者さんの身体の中に私自身が入りこむつもりで、その痛みの本質をじっつ見つめるように努力しました。その痛みは、どうして出ているのか、いったい患者さんの身体の中で何がおこっているのか。それをじっと見つめる毎日でした。

そうしているうちに、私の手にこれまでなかった力が感じられるようになってきたのです。患者さんの身体に手を振れ、《どこが痛いのですか? どこが悪いのですか?》と質問すると、患者さんの身体が応えてくれるようになったのです。

もちろん患者さんに直接質問しているわけではありません。

心の中で(早く治ってください)と念じながら、《まだ痛いところはありますか? どうですか?》と聞く習慣がいつのまにかできていたのでしょう。その問いに対する応えが患者さんの身体から私の手に伝わってくるようになったのです。

《もう、全部、とれました》あるいは《首の第六頸椎が少しズレています》というような応えが返ってくるのです。私は、その応えにしたがって治療を進めます。患者さん自身の身体から得た応えですから、効果はてきめんです。

私の(治してあげたい)という「心」と、患者さんの(治りたい)という「心」が呼応し合うようになったのです。

そして、同時に、それまで気づかなかったことも発見しました。

患者さんの身体の痛みの原因が、「心の痛み」から発していることがとても多いということです。心にストレスを感じていると、身体にまでそのストレスが及び、筋肉や骨のバランスがくずれ、痛みとして出ているという事実です。

「心の病気」が「身体の病気」の原因となっているのです。それがわかったからには、私の治療にも、「心の病気」が必要になってきました。

「心」は確かに目には見えません。

でも目に見えるか、見えないかは、そのものの本質とは関係がありません。

見えるとは、人間の感覚のほんの一つにしかすぎないからです。どんなものでも、目を閉じさえすれば見えなくなってしまうでしょう。

でも、「心」と「本質」はなんら変わりなくそこに存在しています。

心の痛みを取り去るには、「心」と「心」の触れ合いしかありません。

そして身体の痛みを取り去るには高い技術が必要です。人間の身体のメカニズムに精通した知識と、それを正常に正すための技術です。

心と技術。この二つがあってはじめて、より良い治療が実現できるといっていいでしょう。

ただし、ここで一つ言っておきたいことがあります。

患者さんの身体と対話できる力は、決して私だけにある特殊な力とは思っていません。誰にでもある潜在的な能力だと信じています。相手の痛みつらさを(早く治してあげたい)という心を強く強く持てば、誰でも開発できる力かもしれません。

まだ、その力に気づいていない人が多いだけかもしれません。力があることを知ろうとしないだけなのかもしれません。

私は、目には見えない世界があることは、若い頃から少しずつ気づいていました。

その見えない世界をつかもうとして、一ヵ月間、一人で山ごもりをしたこともありました。このときのことは本文でも触れることにします。

そして、患者さんの身体と対話ができるという自分の力に目覚めたとき、私は見えない世界の存在を、言葉を越えて理解したのです。

未知のものを見ようと努力することが大切なのです。

身体全体で感じようとすることです。

心を開いて、しっかりと見続けてください。

やがて見えてきます。あなたの見たいものの本質が。

目次へ戻る

第1章 痛みを癒す「心」の会話―坂本整骨院日誌より―

本人も忘れていた肝臓のトラブル

建設工事現場で仕事をしているという二十二歳の若者。

連日、重労働の作業が続き、腰が痛くてかなわない。おまけにこの二、三日、足がしびれるような感じがするので診てほしいとやってきました。

背骨に沿って指をはわすと、確かに第三頸椎が左側にズレています。このズレによって椎間孔から出ている坐骨神経が圧迫され、それが足のしびれ感になっているのでしょう。この治療は簡単です。固くなった腰椎周辺の筋肉をやわらかくほぐし、腰椎を正しい位置にもどしてあげれば神経の圧迫もなくなり、痛みやしびれはやがて解消するはずです。

(さて、あとは背中全体の筋肉の調整をすればいいな)

と彼の背中に手を当てると、どうも肝臓に反応する部分で私の指先がひっかかります。さっそく彼の身体に《肝臓が悪い?》とたずねてみると、イエスという答えが返ってきます。しかも原因はお酒と出ています。

見るからに若々しい身体はお酒で内臓をやられているような感じはまったくなく、建設現場で働いているというだけあって、引き締まった筋肉は盛り上がっています。

しかし私の指には、肝臓にトラブルがあるという反応が確かに返ってくるのです。

「お酒、飲む?」

何気なさをよそおって彼に聞いてみます。

「あんまり飲みません」

「全然、飲めないの?」

「友達と会ったときくらいかな、でも、先生、なんでそんなこと?」

「いや、キミの肝臓にはお酒があまり合ってないみたいだから。あんまり飲まないほうがいいって、私の手に反応が出てるんですよ

と言うと、その若者、やおらこちらに向き直って、

「じつは先生、結婚前に五〇度くらいの強いお酒をいつもロックで飲んでいて、肝臓に穴あいて、入院したことがあるんですよ。でも、なんで、そんなん、わかるんですか? ずっと飲んでなかったのに」

今はやめているようですが、私の手に反応が出ているところをみると、彼の肝臓はまだ完全には良くなっていないかもしれません。

「これからもあんまり飲まんようにしておいたほうがいいね」

「もう無茶はしませんわ」

もうすぐ父親になるという彼の笑顔に、身体はなんと正直なのだろうと私自身あらためて思いました。

身体が《甘いものキライ》と言っている

肩が凝って、腕も痛くて、パソコンに向かうのがつらいという二〇歳のOL。

暑くないのに汗が出て疲れやすいと、まったく元気がなく、二〇歳の女性特有の溌剌とした若さが感じられません。

「きつそうだね。何が原因か、身体に聞いてみてあげようか?」

自分でも身体の不調をもてあましているのでしょう。コクリとうなずきます。

肩から背中に指をはわしながら《甘いものは好き?》と彼女の身体に聞いてみます。疲れやすくてだるいという症状は、糖分を摂り過ぎている場合に出ることも多いからです。すると、急にググっと強い反応がきます。その強さは相当なものです。私の指が痛いほどです。

「甘いもの、好きでしょ?」

ハっとしたように背中が緊張しました。

「ちょっと食べ過ぎとちがうかな。やめられない?」

仕事をしているときや外出しているときはなんとか我慢できるけれども、家に帰ると、どうにも我慢ができない。甘いものを食べないとイライラして、何も手につかない。そして食べ始めると止まらなくなり、次々と食べてしまうと言います。

「こうして先生と甘いものの話をしているだけで、もう食べたくて食べたくてしかたなくなります」

「でも、身体がやめて欲しいって言ってるから、絶対にやめないとあかんで。そのうち具合悪くなるかもしれへん。まだ若いんだから、身体、大事にせんとね」

自分でもこんなに甘いものばかり食べて、身体にいいわけがないと思っていたのでしょう。でも、やめられない、というつらさが彼女の表情を暗くしています。

食べたいものを食べられない、というのは大変なストレスとなります。とくに若い女の子に甘いものを食べるなということが、どんなに酷だということもわかります。

しかし彼女の場合、糖分の過剰なとり過ぎは絶対に良くないという確信が持てたので、あえて強い言葉で言いました。なにしろ、私の指が痛いほど《良くない》という反応が感じられたのですから。

「頑張ってやめてごらんなさい。疲れやすいのも、汗をかくのもきっとじき良くなるよ。しばらくしたら、また身体の調子を聞いてあげるから、いらっしゃい」

今度はきっと明るい顔で現れてくれるにちがいありません。

気がつかないうちに悪くなっていた心臓

最近は、どこか悪いところがないか見てほしいか期待して来る患者さんも多くなりました。もちろん直接の来院の目的は身体のどこかしらの痛みや不調なのですが、治療が終わると、

「先生、私の身体、ほかにどこか悪いところないですか?」

と聞いてきます。そんな場合は、とりあえず「五臓六腑」を一つ一つ順番に、患者さんの身体にたずねていくことにしています。

背中に手を当て、心の中で、

(これから問いかけさせてもらいます。正直に答えてください)

とお願いした後、《胃はどうですか?》《心臓はどうですか?》と聞きながら指をはわせていくと、悪いところがある場合には、私の指先にグっとひっかかるような反応が返ってくるのです。

心臓が悪いと出る人がけっこう多いのには驚かされます。ただし本人は自覚していないことがほとんどです。

今日の患者さんも、どうも心臓の悪いところで反応が出ます。

「心臓が悪いといわれたことありませんか?」

「ないけど……でも、毎晩、寝つき悪くて、不眠症みたいなんですわ。それにうつぶせでないと寝られません」

「これまで心臓がドキドキしたり、苦しくなったりしたことないですか?」

その中年の女性は思い出したように、

「前に一度、電話中に急に心臓がドクドクドク……って変な打ち方をして、なんやろと思ったことがあります。走ったりしたわけでもないのに、おかしいなと思って……」

職場の定期健診では心臓の異常は指摘されたことはないといいますが、確かに不整脈のようです。心電図で検査する場合は、ちょうど不整脈が出ているときでなければ正確なデータを得ることはできません。

「先生、心臓が悪いって、どうもならへんの?」

不整脈や心不全は、首の頸椎から肩にかけての筋肉の硬化によって自律神経が圧迫されることによっておこるという説もあります。また、不眠症状が続くと起きやすいともされています。

そこで首に触れてみると、第六頸椎の棘突起がほんのわずか右側にずれています。頸椎からは肩をとおって腕にいく神経が出ています。

この患者さんは五十肩の症状も訴えていましたが、肩から腕の痛みも、心臓の不調も、この頸椎のズレが原因とみて、さっそく正常な位置へ矯正しました。

その後、もう一度、患者さんの背中に触れながら《心臓はどうですか?》と聞いてみると、先ほどの反応が消えています。

「私ができることはしておきました。今度、心臓がドキドキしたら、すぐに自分の脈をとってみてくださいね。もし、フッフッと飛ぶように不規則だったら、やっぱり不整脈ですから、病院での治療が必要かもしれませんね」

病院では、検査データに異常がないと「どこも悪くありません」とされてしまうことが多いのですが、検査データに異常値が出るようになったときには、すでに症状が進んでいると考えてまちがいありません。

ところが身体のトラブルが異常数値となって現れる前に、私の手に反応してくることもあるのです。その段階で、私のできる治療によって治してあげることができたら、本当にうれしいことです。

O脚が治っておおよろこび

学校で突き指をしてしまったという女子高生がちょっと口ごもりながらいいました。

「先生、私、O脚なんですけど……」

なるほど、両膝の間に私の握りこぶしが通ってしまいます。

「すごいな、手が入るわ」

「いややわ、先生、感心してはる。ね、先生、この脚、治らない?」

O脚のメカニズムは簡単です。O脚は骨の形が悪いためと思っている人が多いようですが、じつはそればかりではないのです。脚の外側の筋肉が強く張っていて、内側の筋肉の力が弱いことも原因なのです。つまり、筋肉のバランスが悪いために、骨の状態が影響を受けていることも多いのです。

足の外側と内側の筋肉のバランスを正常にするには、なかなか微妙な調整を必要とします。そこで三分ほどかけて調整し、立たせてみると、両膝のすき間は指二本ほどになっていました。握りこぶし一つぶんから比べれば、ずいぶんくっつくようになっています。

「うれしい! よかったぁ! 先生、ありがとう!」

O脚をさぞ悩んでいたのでしょう。彼女の笑顔が語っています。

ところが、隣のベッドで腰と肩の治療を受けるために待っていた中年女性の患者さん。うれしそうに治療室を出ていく女子高生の後ろ姿をまじまじと見ていたかと思うと、

「先生、O脚も治してくれるなんて知らなかったわ。痛いのを治すだけかと表板。私の脚も治してくださいよ」

というではありませんか。でも、待合室にはまだたくさんの患者さんが待っています。予定外の治療ばかりしていては、予約の患者さんに申し訳ありません。

「それなら、今日は腰の治療と脚をやりましょうか。肩の治療はまたこの次ということでいいですか?」

「肩は今日はたいしたことないから、O脚治してくれるんなら、それでいいです」

同じように下肢の外側と内側の筋肉の強さのバランスを調整していきました。

「アラー、つくー!」

これまた大よろこび。女性にとってO脚がいかに大問題かを実感します。とくに最近のようにスカートが短くなってくると、脚の形は大きな関心になってくるのでしょう。

しかし長い間、筋肉のバランスの悪さによって変形していたのですから、しばらくするとまたもとのO脚にもどってくる可能性もあります。そこで、O脚を完治するには、およそ二〇~三〇回の治療が必要と思われます。繰り返し繰り返し調整して、完全に筋肉と骨のバランスを正常にしなければならないからです。

それにしても、患者さんが本当に治してほしいところを治してあげられ、心からの笑顔で帰ってもらえた日は私の疲れもふき飛びます。

身体に触れずに痛みが消えた

待合室がさわがしいなと思っているうちに、高齢のおばあさんが実の娘さんに抱きかかえられ、這うようにして治療室に入って来ました。自宅の前でころんで膝を打ったということですが、痛い、痛いとうなっています。

小さな身体は腰が大きく曲がり、ベッドに寝かすこともできない状態です。どこが痛いですか? とたずねてみても、とにかく痛いといって目を固く閉じています。

くずれそうになる身体を支えながら、ようやくベッドの縁に腰かけさせ、骨折した場所がないか確かめようと、

「首を右に動かせますか?」

と聞くと、痛い、痛いという声の合間に、「いや、だめや」というだけ。

こうなったら、直接、おばあさんの身体に教えてもらうほかはありません。曲がった背中にそっと手を当て、

《骨は大丈夫ですか?》とたずねてみました。すると、私の手に《大丈夫》という反応が返ってきます。よかった。骨は折れていないようです。

「骨は折れていないから、大丈夫ですよ」

安心させるように言うと、

「なんで、そんなんでわかるんですか?」

そばで心配そうにオロオロと見ていた娘さんが不思議そうに聞きます。

「信じてもらえるかどうかわかりませんが、私の手には患者さんの身体の状態が反応してくるんですよ」

「ほんまに……」いまだ不可解といった表情ながら、

「おばあちゃん、骨は折れてへんから、大丈夫やて」

と母親を励まします。

さて、骨は折れていないことはわかりましたが、こんなに痛がっているのでは不用意にさわることもできません。

(どうぞ真っ直ぐになってください。痛みをとってください。おねがいします)

と心の中で強く念じながら、曲がった背中に向かって手を振り上げ、シュ、シュ、と私の精一杯の気のエネルギーを送り込みました。その間、おばあさんの身体にはまったく触れていません。

そうして、しばらくの間、私のエネルギーがおばあさんの身体の中に入っていくのを待ちました。静かに背中の上から下へ触れてみます。すると、私の手に伝わってくる反応は《もう大丈夫》というものでした。

「おばあちゃん、じきに痛みもとれるから、家に帰ったらゆっくりと休んでいてね。絶対に無理はあかんよ」

「ハイ、ハイ」と答えるおばあさんの声が心なしか元気になっています。

「さあ、立ってみてください。ゆっくりとね」

すると、おばあさんは片手をベッドについて自分ひとりでヨッコラショと立ち上がり、もう片方の手でカーテンをシャッと開けたので、娘さんも、同じ治療室にいた人たちもびっくり。

「おばあちゃん! ようなったじゃないの!」

おばあさんは「わたしゃ、まだ痛いわ」といいながらも、なんと娘さんの手も借りず、一人で治療ベッドの間を歩いて待合室へと出ていきました。確かに、先ほどのひどい痛みは消えているようです。

もちろん、待合室にいた人たちも驚いています。数分前、あれほど痛い、痛いと身動きひとつできないような状態だったのですから。

「先生、どないして治したん?」

と口々に聞かれました。

「うまいこと治療できてよかったですわ」と言いながら、私自身、実際に身体に触れなくても強く強く心に念じれば、患者さんの痛んだ身体を治せることがわかり、おおいに満足しました。

患者さんの身体の声を伝える

私の治療院にはゴルフ場でキャディをしている女性たちがたくさんやってきます。周囲にゴルフ場が多いからです。重いゴルフバッグを持ち運ぶキャディの仕事は腰や肩に大変な負担がかかります。

そのため、ほとんどの人が肩こりと腰痛を訴えてきます。今日の患者さんも慢性的な坐骨神経痛でこれまでにも何回か来院していました。

「先生、この前、先生に一週間は休まないといけないといわれたけど、二、三日したら痛くなくなったんで仕事に行ったんです。そしたら、やっぱりダメだったわ。また痛くなってしまったわ」

仕事を持っている人が、完治するまで安静にしていることはなかなか難しいものです。それは私も百も承知ですが、やはり症状によってはきちんと身体を休めないと再発を繰り返します。その結果、だんだんと治りにくくなってしまうのです。

かなり重症のときには、患者さん自身の身体に、《何日間、安静にしたらいいですか?》とたずねることにしています。

身体は正直に《三日》あるいは《一週間》と教えてくれるので、それを患者さんに伝えるのですが、なかなか守れない人が多いのです。

今日も患者さんの身体に聞いてみました。すると答えは、《三日で痛みはひくが、安静は五日間》というものでした。そこで、

「日曜日には痛みがひくと思うけど、仕事に出るのは水曜日からにしたほうがいいと、あなたの身体がいってますよ」

「え、そんなんまでわかるの?」

「わかりますよ。あなた自身の身体が言っているのですから、とにかく今回はその通りにしてみてくださいね」

昔から「身体は正直」といいます。患者さん自身が聞くことのできない身体の正直な声を私が聞き取り、それを伝えてあげることによって、患者さんの健康が一日も早く確実に回復する手伝いができたらと思う毎日です。

体質の薬の相性がわかるOリングテスト

最近は、患者さん自身の身体から答えを引き出すために「Oリングテスト」も利用しています。

Oリングテストは、患者さんの利き手の二本の指で丸い輪を作ってもらい、その輪に私の指をかけます。そして、患者さんに、もう片方の手で自分の身体のいろいろな部分に触れてもらいます。

もし、その部分が健康であれば、輪を作った指には力が満ちていて、私が開こうとしても開きません。ところが身体に悪い部分があり、そこに触れると、輪を作った指から力が抜け、私の指によって輪は簡単に開いてしまうのです。

たいへん不思議な現象ですが、大村恵昭という医学者によって考案された非常に画期的な診断法です。

「自分にどの栄養剤が合うか診てほしい」という患者さんがいました。クロレラ、ローヤルゼリー、ビタミン剤などをいろいろ持ってきています。

Oリングテストは、身体の悪い部分を見つけるだけでなく、どんな薬や栄養剤が患者さんの体質に合うか、適量はどれくらいかも診断することができるのです。

そこで、栄養剤のビンを一つずつ順番に持ってもらってテストすることにしました。

右手の親指と人さし指で丸い輪を作り、左手でクロレラのビンを一〇秒ほど持ちます。身体がクロレラを感知するまで、そのくらいの時間が必要だからです。

その後、私の指を輪にかけて引っ張ると、輪は簡単に開いてしまいます。どうやら、クロレラはこの患者さんの体質に合っていないようです。もちろんクロレラ自体が悪いのではありません。あくまでも、この患者さんの体質との相性が良くないということです。

このように順番に調べていったところ、ビタミンCを持ったときに、指の力が最も強くなるのを感じました。

「身体がビタミンCを欲しがっているようですよ。不足しているのかもしれませんね。ビタミンCを毎日飲むといいですね」

ビタミンCには全身の細胞を活性化し、老化を防ぐ働きがあるといわれています。ストレスにも効くといわれています。ビタミンCを定量ずつ毎日飲むのは理にかなっていることなのです。

すると、「先生、私、プロポリスを飲んでいるんだけど、私に合っているかしら?」という人も現れ、その日の予約治療時間は大幅に乱れ、他の患者さんに迷惑をかける一日となってしまいました。

目次へ戻る

第2章 身体の大黒柱「背骨」が健康を支えている

背骨は「人間らしさ」の中心軸

背骨は人間の身体にとってきわめて重要な働きをしています。首から腰にかけてまるで身体の大黒柱のように通り、身体を垂直に支えているため、脊柱とも呼ばれます。

この背骨こそ、人間が二本足で歩き、手を使い、豊かな心と高い知能をもつ存在にしてくれているといってもいいでしょう。

首を三六〇度自由に回すことができたり、身体を前後左右に動かすことができるのは、大黒柱である背骨が一本の骨ではなく、三二~三四ほどの輪状の椎骨が絶妙なバランスで積み重なっているからです。

頭蓋骨につながる部分から順に頸椎七個、胸椎十二個、腰椎五個、仙骨五個、尾骨三~五個(人によって異なります)が、ゆるやかなS字カーブを描いて、靭帯や筋肉などによってつながっています。一つ一つの椎骨の間には椎間板という柔らかい組織があり、クッションの役目をしています。

背骨は骨盤(寛骨)とも一体化して、内臓も守っています。

さらに背骨の中心には脊髄が通っていて、頭蓋骨の中にある脳につながり、中枢神経系を構成しています。脊髄から枝分かれした脊髄神経は、背骨の両側面に並んでいる椎間孔という小さな穴から出て、全身に広がっていきます。

この脊髄神経と椎間孔のバランスも、超精巧といっていいほど見事にバランスしています。孔の大きさや位置が、神経の太さや長さなどとピタリと一致しているのです。

椎間孔を通るときの神経の太さは、肉眼でも見えるほどの太さです。その後、いくつもに枝分かれして次第に細くなり、ほとんど肉眼では見えない細い末梢神経網となって全身にネットワークされています。

そのため、背骨を形成している椎骨がズレたり、ねじれたりすると、椎間孔と神経のバランスもくずれ、神経が圧迫されたり、引っ張られたりしてしまいます。これが神経痛やしびれ感、身体のさまざまな不調の原因となるのです。

背骨の三〇余りある椎骨のどの部分にトラブルが生じたかによって、どの神経が圧迫されるか、不自然に引っ張られるか決まってきます。そのため、どんな痛みが、どこに出ているかによって背骨のどの部分にズレや歪みが出ているか診断がつくのです。

姿勢のクセや疲労から生じる背骨の歪み

では、この大切な背骨がズレたり、ねじれたりしてしまうのは、いったいどういう理由からでしょうか。

大きく分けると、①外的ショック ②姿勢 ③疲労 ④精神的ストレスなどが理由になると考えていいでしょう。

まず、外的ショックは、交通事故はもちろん、何かにつまずいて瞬間的に身体のバランスを崩したり、階段を踏みはずして瞬間的に無理な力を腰や足にかけてしまう場合などです。そのときはたいしたことがないと思っていても、後から思わぬ影響が出てくることも多いのです。

私たちは子供のころから「姿勢を良くしなさい」といわれて育ちますが、姿勢を正しくしておくことは本当に重要なことだということは次の説明でわかると思います。

背骨の椎骨は、それぞれ関節でつながり、靭帯によって結ばれています。そのまわりには大小さまざまな筋肉が付着していて、背骨をしっかりと支えています。私たちが身体を自由に動かすことができるのは、この骨格筋とよばれる筋肉のおかげなのですが、と同時に、背骨のズレやねじれを生じさせてしまうのも、じつは筋肉なのです。

筋肉は細い筋繊維の束からなっていて、伸びたり収縮したりできる柔軟性があります。ところが日常的な姿勢の癖や仕事上必要とされる特定の姿勢によって、バランスが崩れて状態で緊張してしまうことがあります。つまり本来の収縮性がなくなってしまうわけです。また、”姿勢の癖”をもっている人はたくさんいます。

たとえば、椅子に座ると必ずどちらかの足を上にして組む癖。

机に向かうとき、必ず身体を斜めに構える癖。

荷物を持つとき、必ずどちらか決まった手を使う癖。

あるいは肩からバッグを下げるとき、必ず決まった方の肩にかける癖。

いろいろな姿勢の癖が、長い間に筋肉の本来の絶妙なバランスを崩してしまいます。

使わない筋肉は筋力が落ち、柔軟性を失います。使い過ぎた筋肉は疲労して、緊張していきます。もし、背骨についている筋肉が姿勢の癖によって筋緊張を起こし、柔軟性がなくなると、その筋肉が付着している骨の部分を引っ張るかたちになります。

背骨の構造は非常に絶妙なバランスの上に成り立っていますから、本来のバランスからはずれた力で引っ張られる状態が長く続くと、やがてズレやゆがみが生じてくるのです。肩こりや腰痛など、慢性的な痛みを訴える人には、そんな姿勢の癖から生じた背骨の歪みがみられる場合がとても多いのです。

疲労で筋肉が硬くなったり、痛くなったりすることは、みなさんも経験上よく知っていることでしょう。

仕事で重労働をしたり、長時間、同じ姿勢を続けていたり、あるいはスポーツで筋肉を使いすぎた場合など、筋肉の疲労がおこります。酷使した部分の筋肉が硬くなって動かしにくくなったり、痛みが生じます。

短時間の酷使ならば、しばらくすれば筋肉の疲労は自然に回復します。ところが仕事やスポーツで筋肉疲労が積み重なっていくと、やがて筋肉は回復力を失い、付着している骨に対しても負担をかけるようになっていくのです。

精神的ストレスがなぜ、背骨を歪めてしまうのでしょうか?

悩みごとがあると、私たちは自然と行動力が鈍り、じっとしている時間が長くなります。しかも無意識のうちに下を向き、背を丸めています。そのため首筋や肩がこった状態になってしまうのです。

あるいは仕事でひどく緊張を強いられたり、成果が思うように出なかったりすると、精神の緊張は身体の筋肉も緊張させます。心と身体は、私という人間の中で一つになっているからです。お互いに影響を及ぼしあっても何の不思議はないのです。

“背筋がピン”は若さの証明

高齢の方でも、背骨がピシッと伸びている人は健康です。心も健康、身体も健康です。ゴルフ場でキャディをしている患者さんに、

「ゴルフの上手な人たちは、ふだんから背筋がピンと伸びていて、歩く姿もさっそうとしているでしょう?」

と聞くと、

「私のところには明治生まれの人たちばかりのグループが一ヵ月に一回くらいプレイをしにくるけれど、そういえば、みなさん姿勢がよろしいわ。明治生まれといえば、八五歳以上でしょう? 全然、そんな歳には見えへんわ。そりゃ、ボールはそんなに飛ばないけれど、みなさん本当に上手だわ。ほとんどパーやボギーで回ってはるもの」

と感心したように言います。

背筋がピンと伸びていると、自然と身体の内側からエネルギーが出てくるのです。歌の文句ではありませんが、つらいときほど顔を上げて笑おう、悲しいときは空を見上げようというのは正しいのです。上を向き、笑うことによって新しいエネルギーが身体の内側からわきあがってくるのです。

意識的に姿勢をよくすることによって気力をわき立たせ、健康な身体を取り戻すこともできます。

たとえば、複式呼吸がからだに良いといわれるのは、複式呼吸をするためには背筋を伸ばさなければならないからです。背中を丸め、下を向いていては決して複式呼吸はできません。口や胸だけで呼吸をするのではなく、腹の中から大きく、深く息を吸ったり吐いたりするたびに背筋がきちんと伸びる。だから複式呼吸は健康にいいのです。

背筋をピシッと伸ばしておくことは、それほど意味のあることなのです。

どこか身体の調子が悪い人も、意識的に背筋を伸ばすことによって気持ちが明るく、前向きになって、体内にエネルギーが満ちてくることを実感するにちがいありません。

誰にでも、今日からできる健康になるための秘訣です。

背骨から出る全身の神経ネットワーク

背骨からは全身をネットワークする神経が出ているといいましたが、もう少し詳しくみてみることにしましょう。

七個の頸椎からは脳神経と脊髄神経が出ています。脳神経は、視覚や嗅覚、聴覚、味覚などの知覚神経や、顔の筋肉などを動かす運動神経などです。頸椎から出ている脊髄神経は主に肩から腕を支配する知覚神経、運動神経です。

胸椎、腰椎、仙椎などから出ている脊髄神経も、全身を支配する運動神経と知覚神経とから構成されています。

運動神経は、脳から出された信号が脊髄を通り、全身に広がっていきます。この運動神経のおかげで、私たちは自分の身体を思いどおりに動かすことができるのです。

一方、知覚神経は身体の各所でさまざまな刺激に反応し、末端部から脊髄へと集まってきて、脳へと伝えられます。

脊髄神経は、内臓や血管などを支配している自律神経系にもつながっています。

自律神経は、内臓を正常に動かすために重要なはたらきをしている神経です。

食物の消化・吸収作用や、血液やリンパ液の循環、ホルモンの分泌など、自分の意志とは関わりなく行われる身体の機能を支配するため”自律”神経と呼ばれているのです。

自律神経には交感神経と副交感神経の二種類があります。

交感神経は脳の視床下部から出て、脊髄の両側に二本走っています。この交感神経幹に背骨の椎間孔から出てきた脊髄神経がつながっています。

副交感神経は、、脳の延髄から出て鎖骨、肋骨の中を通っている迷走神経に、背骨の仙骨から出ている骨盤神経がつながって構成されています。

交感神経と副交感神経は、いくつにも枝分かれして、それぞれ同じ内臓や器官に分布していますが、働きは正反対なのが特徴です。そして、どちらか一方の働きが強くなれば、一方の働きが弱くなるという性質をもっています。

たとえば心臓は、交感神経によって活動が促進され、副交感神経によって抑制されます。末梢の血管は、交感神経によって収縮し、副交感神経によって拡張します。そして、胃や小腸の消化液の分泌は副交感神経によって促進され、交感神経によって抑制されているという具合です。

その結果、次のような現象が起きます。

緊張したり、驚いたりすると交感神経の働きが強まるため、心臓はドキドキし、皮膚の末梢血管が収縮するために顔色は青ざめ、睡眠分泌が抑えられるために口の中がカラカラに乾くのです。

このように自律神経は身体のすみずみにまで張りめぐらされて、じつにさまざまな働きをしています。

最近、原因のはっきりしない身体の不調に対して「自律神経失調症」という病名がつけられることが多くなりましたが、いわば内臓の働きやホルモンなどの分泌を支配している自律神経がうまく機能していないために、さまざまな不安愁訴が出ているという診断が、「自律神経失調症」といっていいでしょう。

ところが自律神経失調症とされる症状も、もとを正せば背骨が正常な状態にないために起こっているものが多いのも事実です。背骨が本来あるべき位置からズレたり、ねじれたりしたために自立神経が圧迫されたり引っ張られたりし、内臓やホルモンの分泌のバランスが悪くなっているのです。

その結果、胃腸の調子が狂ったり、心臓に不整脈が出たり、頭が重くイライラしたり、耐えがたい疲労感に襲われたり、精力が減衰したりなど、さまざまな不快な症状に苦しめられるのです。

このような場合は病院からもらった薬だけでは治りにくいのが現状です。

すると、ますます精神的ストレスは高まっていきます。心の身体のバランスが崩れていきます。これでは、とてもいきいきとした日常生活は営めません。

腰痛はきちんと治しておきたい

腰痛とは、腰椎から出ている神経がなんらかの原因で圧迫されたり、刺激されたりして起こります。

腰の骨のまわりには筋肉、筋膜、腱、靭帯などがあり、これらの組織には知覚神経がすみずみにまで分布しているため、組織のちょっとした異常によっても刺激されて痛みを感じるのです。

また、運動神経が圧迫されることによって、思うように足が動かなくなったりします。

整形外科へ行くと、レントゲン検査などをして坐骨神経痛、ギックリ腰、腰椎ヘルニア、腰椎分離、腰椎すべり症などの病名をつけられ、牽引や低周波による電気治療などの治療がされますが、なかなか思うように治らない場合も多いようです。

ところが腰痛は、きちんと治しておかないと、身体のほかの部分にも支障が出てくることが多いので、とくに注意が必要です。

たとえば腰痛の最も多い原因の一つでもある仙腸関節の異常など、その良い例です。

仙骨は、腰椎の下部にあり、背骨が骨盤(寛骨)と結合している部分です。

仙骨以外の脊椎は、身体の動きに応じてある程度動く構造になっていますが、仙骨だけは骨盤の腸骨という部分に固定されています。腸骨は、骨盤の左右に張った丸い部分です。仙骨と腸骨の結合部分のために仙腸関節と呼ばれますが、本来は動かない構造になっています。

ところが重いものを持ったり、無理な姿勢をしたりしたときに、この関節がほんの少しズレたり、ねじれたりすることがあるのです。

その結果、仙骨の椎間孔から出ている仙骨神経や坐骨神経が圧迫され、腰椎の原因となります。朝、洗面台で顔を洗うのがつらい。歯を磨くときも片手を洗面台について身体を支えていなければ痛くてたまらない。あるいは椅子にいったん座ってしまうと、立ち上がるのがつらい。立ち上がった後、すぐに身体がまっすぐに伸びない。歩いている途中で腰にビリリッとするどい痛みが走り、おもわず立ち止まってしまうなどというような症状が出てきます。

坐骨神経は大腿後面を通り、かかとまで続いているため、足全体に痛みやしびれが出て歩行困難になる場合もあります。

前項で、自律神経の一つである副交感神経は、仙骨から出ている骨盤神経と迷走神経がドッキングして構成されていると書きましたが、仙腸関係のトラブルによって腰痛が出ていると、周囲の筋肉にもこりや張りが生じ、自律神経の働きにも影響を及ぼしてしまうのです。

腰痛は、やがて内臓機能の低下や変調も引き起こすというわけです。

「腰」という漢字は、身体を表す「月(にきづき)」に、「要(かねめ)」という文字が組み合わさ絵ていることからもわかるように、身体の中でもきわめて重要な部分なのです。このことを「肝に銘じる」とともに、腰に命じて、くれぐれも大切にしてください。

「たかが肩こり」と甘くみてはならない

肩こりはいろいろな原因から起こります。

同じ姿勢を長時間していたり、寝違えたりなど原因がはっきりしている場合もありますが、運動不足、睡眠不足、精神的ストレスなども、気がつかないうちに肩こりの原因になります。

また、以前に経験した事故や、内臓の病気が原因となって、肩にこわばり感や不快感が出ている場合もあります。

「肩こりぐらい」とほおっておくと、首や肩の筋肉の緊張がひどくなり、頚椎ヘルニアなどが起こり、手のしびれ、偏頭痛、うつ病、メニエール病、耳鳴り、呼吸器障害、バネ指、腱鞘炎などさまざまな症状を引き起こします。

こうなると、休息をとったり、肩の筋肉のこりをとるぐらいでは治らなくなってしまいます。

私は、患者さんの肩こりの原因を、患者さん自身の身体に問いかけ、答えをもらうことにしています。「早く治りたい」という患者さんの本質と、「少しでも早く治してあげたい」という私の本質とを呼応させるのです。

たとえば、このような例があります。

肩こりを訴えている患者さんの身体から私の手に《胃が悪い》という反応が出ました。そこで、なぜ胃が悪いのか、その原因も患者さんの身体に答えてもらいました。《精神的ストレス?》《甘いものの食べ過ぎ?》と次々問いかけていくと、「甘いもの」のところで私の手にひっかかるような反応が返ってきます。つまり、この患者さんは甘いもののとり過ぎで胃を悪くし、それがひどい肩こりの一因となっているのです。

「少し胃が疲れているようですね。甘いもの食べるのを控えるといいですよ。胃が良くなれば、肩こりもきっと良くなりますよ」

と言いながら、肩の治療を始めます。

肩の筋肉のこりを柔らかほぐし、頚椎の調整をすると、わずか五分くらいの治療でも患者さんの胃の痛みが消えていきます。

すぐに効果が出るので患者さんも不思議がりますが、その人の本質の問い、そこから得られた答えを大切にして治療しているからなのです。

つまり、どんな肩こりにも原因があり、患者さんの身体にその原因を教えてもらい、それを取り去るように働きかけるわけですから、治療効果が高くなるのも当然というところでしょうか。

ところで、肩こりは、肩の筋肉が硬くなり、細胞内に乳酸などの老廃物がたまった状態です。筋肉の緊張によって神経が圧迫されていると同時に、この老廃物が神経に痛みを感じさせる原因となっているのです。

肩こりの治療方法は百出千出しているので、ここでは書きませんが、たかが肩こりぐらいとがまんをしていると、前述したように頸椎の変形などによってさまざまな症状を引き起こす可能性もあるため、できるだけ早く解消しておくことが大切です。

もし、肩こりが出たら、次の点をチェックしてみてください。

①姿勢が悪くないか

②同じ姿勢を続けているときは、時々身体を伸ばしたり、動かしたりしているか

③目が悪くないか、眼鏡は合っているか

④目を使い過ぎていないか

⑤睡眠不足になっていないか

⑥人間関係など精神的ストレスがないか

⑦内臓に病気がないか、とくに胃腸が悪くないか

⑧以前にムチ打ち症などを経験していないか

⑨身体を冷やしすぎていないか

⑩偏った食事内容になっていないか。とくにビタミンが不足していないか

もし、思い当たることがあったら、さっそく対策を考えてください。

目次へ戻る

第3章 「心の健康」が根本にある

こころが痛めば身体も痛む

肩こりの原因の一つに精神的ストレスがあるといいましたが、肩こりに限らず、身体のさまざまな痛みの陰に「心の痛み」が隠れています。

人間は身体だけでなく、心と一体となって存在しています。したがって心の痛みが身体の痛みとして出てくることは、少しも不思議ではありません。

精神的ストレスが身体の痛みや不調の原因となっているのならば、まずはストレスとなっている原因を解決し、「心の健康」を取り戻さなければなりません。そうしなければ、身体の健康も取り戻せないといってもいいでしょう。

私の治療院には、整形外科や他の診療科へ行っても特別に悪いところは見つからないといわれた患者さんがたくさんやってきます。したがって適切な治療も受けることができなかった人たちです。でも、身体は相変わらず痛かったり、だるかったり、不快だったりするわけです。

それにしても、私たちは身体の調子が悪いとき「原因がわからない」「原因がはっきりしない」ということほどいやなものはありませんね。原因がわかれば、治療の方法や、どんな薬を飲めば治るかわかるにちがいないと思うものです。

原因がわかっただけでラクになる人もたくさんいます。

たとえば、腰が痛いと来ていた患者さんの中に、胃の調子も悪くて悩んでいた人がいました。何か食べると胃が痛むので、食べるのがこわくなる。そのせいか最近、少し体重が減った。自分は胃ガンではないだろうか……とクヨクヨしていました。自分でいろいろな本を買ってきて、調べたりもしています。

ところが病院での検査の結果、一過性の胃炎だということがわかりました。しばらくのあいだ、お酒を控えたほうがいいといわれたそうです。その瞬間、

「なんだ、飲み過ぎの胃炎だったのか!」

と心がパッと明るくなったにちがいありません。

それまで、あれこれと悪いことばかり想像して、身体ばかりでなく心まで疲れ果ててしまっていたのに、あっというまに元気になっていきました。

病院からもらった薬もろくに飲まないうちに、すっかり調子が良くなり、それとともに腰の痛みもなくなったようで、じきに私のところへも来なくなりました。

いかに精神的要素が大きいかという一例です。心が健康になれば、身体の健康も取り戻せるという良い例でしょう。

私も患者さんに接するときには「心の健康」と「身体の健康」の両方を同じぐらい大切にしています。

まず、患者さんの痛む場所を聞き、そこに手を触れてみます。筋肉や骨のバランスが崩れているときには、私の手にその反応が返ってきます。ところが、身体の痛みの原因である背骨や手足の骨、あるいは筋肉のバランスの異常が私の手に返ってこない場合には、患者さんの身体に、何が痛みの原因なのか、たずねてみるのです。

わからないことは、本人の身体に聞くのがいちばん良い方法だからです。

内臓の不調に原因があるのか? それとも精神的ストレスなのか?

でも、どちらか一方にのみ原因があるとも限りません。内臓の調子が悪いために、精神的にもイライラしている場合もあるでしょう。また、仕事の忙しさや、家庭内のいざこざが精神的ストレスとなり、肝臓が悪くなっている場合だってあるでしょう。その結果、腰や肩の痛みとなって現れてきたりするのです。

まさに心と身体は一つなのだということを、患者さんから教えられる毎日です。

そこで私は、患者さんの身体にそっと手を当て、何が原因か一つひとう聞いてみます。もっとも根本的な原因となっているものに対して、もっとも強い反応が返ってきます。原因がわかれば、あとは、いかにそれを取り除くかです。

私の技術でできることは、あらゆることを試みてみます。精神的アドバイスもします。痛みがラクになる日常生活の方法もアドバイスします。

専門医の検査や治療を受けるように言うこともあります。

「ホンマに先生のいうことはよく当たる」

「先生のいうとおりにしたら、ようなった」

と患者さんによろこばれますが、じつは、患者さん自身の身体に教えてもらっていることも多いのです。患者さん自身の身体が求めているものを私が聞き取り、患者さんに伝えているわけですから、良くなるのも当然といえば当然なのです。

それにしても、

「ホンマにラクになりました」

この言葉が患者さんの口から聞けることほどうれしいことはありません。

手をあわす

心であわす

相手にあわす

仏さまにあわす

あわすことができてありがたい

「心の余裕」が「心の健康」

心の健康は、その人の心の持ち方しだいで生まれてきます。

また心の健康とは、その人の「心の余裕」と言い換えることもできるのではないでしょうか。

人間は決して一人で生きているわけではありません。毎日、多くの人と接して生きています。人間には「相性」というものが確かにあります。

何も言葉を交わさなくても、一緒にいるだけで居心地のよい人。考え方に素直にうなづける人。このような人とは「相性が良い」というのでしょう。

反対に、言葉の一つひとつ、態度の一つひとつが気にさわるという人もいます。こういう人は「相性が悪い」と、つい敬遠したくなってしまいます。

でも、心に余裕がある場合は、たとえ(相性が悪いな……)と思っても、ほどほどに相手に合わせられるものです。何も自分の心を押さえて、親しくする必要はありません。でも、周囲の人たちに違和感を与えない程度には上手に合わせられるはずです。

ところが、心に余裕のない場合は、相手を無視したり、つっけんどんになってしまいがちです。

人間関係ばかりではありません。食べ物の好き嫌いでも同じです。人の好き嫌いがはっきりしている人は、食べ物の好き嫌いも多いようです。

「これは好きだけど、あれは嫌い」と、嫌いなものには手をつけず、平気で残します。

心の許容量が大きい人や、寛大な人は違ってきます。食べ物に対しても、「決しておいしいとは思わないけれど、出された以上はいただこう」、あるいは「栄養があるから食べよう」という考え方ができるのです。

人間関係でも、「どうもこの人とは合わないんだけれど、なんとか上手くやっていく」ことができるようです。「自分とは考え方が違うけれど、話してみれば、何か得るものがあるかもしれない」と思えるのです。

そのような心の余裕が持てることが大切なのではないでしょうか。

自分で好き嫌いを決めてしまわずに、とにかく触れ合ってみて、そこにプラスになるものを見出だそうという気持ち――それが「心の余裕」であり、「心の健康」の源泉です。そのような気持ちで人と接していけば、人間関係による精神的ストレスもぐっと減るにちがいありません。「いいところだけ」を自分のものにしていくことによって、心の状態を平穏にしていけるのです。

拒絶するのではなく、まずは受け入れてみる。それがとても大切だと思います。

もう一つ例をあげてみましょう。

私は、寝る前はとても大切です、と患者さんに言います。せめて一〇ほどは一日のうちにありがたかったことを感謝して言ってみましょう。そして、心も身体もリラックスして、明日に希望を持って寝るように勧めます。

しかし、一日の中でありがたかった事一〇は、なかなか言えないようです。

「昨日は、五つしか言えなかったわ」と言うので、「五つも言えたんですね」と応えると、ハッとされ、「そうでしたね。感謝ですね」と気づかれるのです。

このように、一つの出来事をプラスととるか、マイナスととるかによって、身体の健康への影響は変わってくるのです。

心をプラスにもてる人は、どこへ行っても、何を食べても、誰に会っても、楽しい気持ちでいられます。心が楽しければ、精神的ストレスも感じません。身体もいつも健康でいられます。周囲の人間関係も幸せになっていくことでしょう。

それに反して、マイナスにしか物事を考えられない人は気の毒です。せっかく栄養にあるものを食べていても、

「こんなまずいものを食べられない」

「私の嫌いなものを出して、いじわるだわ」

などと考えては、身体の栄養には決してなりません。

それどころか、「こんなもの……」と思った瞬間に、その人の心にはストレスが生じているわけですから、栄養になるどころか、身体の不調に原因にさえなっても不思議ではありません。

身体が健康でいられるかどうか。それは、その人の心のあり方しだいというのは、こういうことなのです。

私のさりげない生き方が

多くの人の歓びとなる

こんな生き方をいつもしていたい

夢を実現する歓び

私たちは夢をもって生きています。

就職、結婚、車、昇進、貯金、マイホームなど、一人ひとりの夢があることでしょう。でも、一つの夢を叶えるのは並大抵のことではないですね。

ここに夢を叶える一つのコツがあります。まず、夢を明確にすることです。ぼんやり頭の中で思い描くより、その夢を明確にして、しっかりと意識してみましょう。

それだけで夢は少し近くなります。

次に、夢を大きく持つことです。「夢」そのものが一〇〇パーセントなら、それを実現できるのは、せいぜい三〇~五〇パーセント、よほどの努力で七〇パーセントといっていいでしょう。

では、夢を三〇〇パーセントぐらい大きくしたらどうでしょうか。その大きな夢をなんとしても実現してみようという気概で望めばどうでしょうか。実現に向かって努力する過程で、近い小さな夢は、どんどん叶うでしょう。

それが、周囲の人を喜ばせることができる夢ならば、なお励みは大きいでしょう。

ところが、逆に夢が精神的ストレスになることもあります。

大きい夢ほど、現実にするのは難しいものです。そのため、実現が困難とわかったときや、努力することに疲れてしまったとき、夢はストレスの要因となるのです。

このようなストレスを回避しようと思うならば、実現可能な範囲の夢をもつことでしょう。いわば自分の性格に、自分の力量に合わせて夢をもつ必要があるともいえます。

どんな夢であれ、夢は夢で終わってはつまりません。夢を叶えていくプロセスで味わう満足感を知らずに終わってしまっては残念です。

夢を実現させ、そのプロセスでの達成感や喜びを知るために大切なことは「精神の永続性」です。夢をもったら、その夢が実現するまで、あきらめずに努力することです。

夢を叶えるのは気魄であり、精神的な貪欲さといっていいでしょう。

貪欲になるということは、自分自身で努力するということです。

走り幅跳びにたとえてみれば、跳躍距離を出すには、充分に後ろへ下がって助走しなければなりません。踏み切り線に向かって全速力で走って、走って、そして着地点に向かって跳ぶのです。自分の力の限り、高く、遠くへ跳ぶのです。

人生も同じです。夢の実現に向かって走り、飛ぶのです。

そのための努力は、プロセスの一つひとつで続けていかなければ結果は生まれません。精神の永続性とは、努力し続ける心です。

私自身の夢は、一人でも多くの人の痛みを一日も早く取り去り、心の健康と身体の健康をともに手に入れてもらうことです。

私はまた、人生の醍醐味は「歓び」だと考えています。歓びがなければ、人生は生き生きとしたものとはなりません。

そして私の人生の歓びは、人の役に立てたと実感できたときに生まれてきます。

患者さんに「身体がラクになった」「痛みがなくなった」という歓びを感じてもらうこと、それが私の大きな生きがいとなっているのです。

いわば私は、患者さんたちから私自身の人生の歓びと生きがいをいただいているといっていいでしょう。

何ごとも 真心

人の歓びが心の底から歓べる

大きな大きな願いの中に生きる

子供を蝕む過剰な期待

最近は、子供も大きなストレスを感じています。

その一因は、大人の「夢」の押しつけです。親をはじめとする周囲の大人たちの期待が子供たちのストレスの原因となっているのです。

大人たちの期待は、ときとして子供の素質や能力を無視しています。

勉強でも、スポーツでも、つい自分たちの体力や知力を基準にして「このくらいはできるはずだ」と考えてしまいがちなのです。

子供たちは、大人たちの期待に応えようと必死で努力するのですが、いかんせん、体力や知力は大人に遠く及びません。たとえ素質や能力があったとしても、伸びるには段階と時間が必要です。それを無視する大人があまりに多いように思います。

その結果、子供たちの中に精神的ストレスが蓄積しています。

ストレスが心に及ぼす影響、身体に及ぼす影響、いずれもが問題です。ストレスのために身体が緊張し、筋肉の疲労を起こし、「疲れた」を連発します。

私の治療にも、そんな子供たちがやってきます。

スポーツの低年齢化も大きな要因です。中には、自分の子供を一流選手にするために育てているといわんばかりの親もいます。

そんな親の「うちの子ならやれる」という気持ちがまったく判らないわけではありませんが、もう少し子供本人の気持ちや身体の状態も考えてあげられたら、と思うこともしばしばです。

「もう、この子は試合の前になると足が痛いって言い出すんですよ」

親はすごい剣幕でいいますが、そんなことは当たり前です。試合の前になれば練習もハードになるから、筋肉痛を起こすわけです。睡眠も充分にとれず、筋肉疲労も回復できないわけです。慢性疲労が耐えがたい痛みとなって現れているのです。

あるいは、ピアノやバイオリンを幼い頃から習わされている子供たちもたくさんいます。

「うちの子はいやがらずにお稽古するんですよ」

と親はうれしそうにいいますが、遊びたい盛りの子供たちが、一つのことを自分から進んで稽古するとも思えません。子供たちは、何でもやってみたがりますが、飽きるのも早いのです。そして、いろいろなことを体験して、楽しみながら育っていくものなのです。自由に遊ぶ時間も与えられない子供が、学校で突き指をして帰ってきたりすると、

「この子は、コンクールの前になると指をケガするんですから、もう、本当に困ります。先生、あんとかなりませんか!」

子供はまるで自分が悪いことをしているかのようにしょんぼりしています。痛い思いをして、頭ごなしに叱られて、本当に気の毒なのは子供たちです。

そして、そういうときこそ的確なアドバイスが大事だと思っています。子供自身に対しても、親に対しても、

「あんまり期待しないほうがいいですよ」と言いたいことも多いのですが、間違っても子供の前では言えません。それがなくても、親が腹を立てていることによって傷ついているのですから、ますます自信を失ってしまいます。

子供の本心は、親がうれしそうにしていると、それだけで満足というところがあるのです。自分が頑張れば、親も喜んでくれる。それが自分の歓びになっているのです。

子供というものはそういうものなのです。

一生懸命努力している子供たちこそ、大人たちに「歓び」を与えることを知っているのです。そんな気持ちの子供たちが、大人の夢や思惑で傷つき、苦しんでいるのを見るのはつらいものです。

私のところへやってきた子供たちの痛みをとってあげるのはもちろんですが、どうしたら安心して家に帰れるかどうか。どうしたら、その子にとってプラスになるアドバイスをしてあげられるか、ということをいつも考えています。私の子供は私の子供ではなく、神仏から授かった大切な子供なんだと気づくことが第一です。

ですから、あれこれと指導することよりも、子供のもつ無限の可能性を信じてあげてください。ほめてほめて、ほめあげてください。

子供は真似の名人です。真似をすることによってホンモノとなっていくのです。そういう意味では回りの私たちが本物でなければなりません。「変わらなきゃ」ならないのは私たち大人なのかもしれません。

ともに生きる

ともに泣ける

ともに笑う

ともにおこる

一人じゃないんだな

ストレスを運動エネルギーに変えて解消する

過度な運動によって身体が痛められ、精神的ストレスとなる場合があると書いてきましたが、逆に、精神的ストレスは、運動エネルギーに変えることによって解消することができます。

たとえば、連日夜遅くまでの仕事で疲れていても、休日に気の合う仲間をゴルフへ行くと、気持ちが晴々して疲れもふっとんでしまうという人もいるでしょう。

ふだんは「あれもしなければいけない。これもまだやっていない」と頭の中は常に「やらなければならないこと」でいっぱいです。でも、いったんゴルフ場のグリーンへ出たら仕事のことはきれいに忘れてしまうはずです。

クラブを握ってボールを見つめたら、真っ直ぐに遠くまで飛ばすことしか考えなくなるのです。

よく「腹の立つ上司の顔をボールの上に思い浮かべて、思い切り打てばいい」とか言いますが、そんなことは想像の上での話です。実際にボールを前にしたら、それは白いボールでしかありません。間違っても、きらいな上司の顔など浮かぶことはないでしょう。

いかにうまく思い通りの方向へ飛ばすか、いかに池やバンカーに落とさずにグリーン上に乗せるか、いかにホールに入れるか、それだけに集中するのがふつうです。

このとき、私たちは精神的ストレスから解放され、”気分転換”しているのです。

日常のストレス要因から解放され、気分転換できるからこそ、身体は多少疲れても、気持ちはラクになっているのです。

精神的ストレスが運動エネルギーによって解消されたのです。

そして、「さあ、明日からまた頑張るか!」という気持ちになれるのでしょう。

確かにゴルフ場で歩く運動量はたいしたものではありません。しかし、広い青空の下で緑色の木や芝生を見ながら歩くことが、有効な運動エネルギーとして作用し、気分を一新させる効果を生み出すのです。

そこで私は、精神的ストレスから身体の痛みや不調が出ている患者さんには、

「運動不足ですね。少し身体を動かしたほうがいいですね」

とアドバイスすることにしています。

こういうアドバイスのしかたは、「これは精神的ストレスが原因ですね。ストレスを解消したほうがいですね」なんていうよりも、ずっと効果的です。私にこう言われて、「そういえば、しばらくゴルフも行ってないな。よし、久し振りに行ってみるか」と考えてくだされば、必ずよい結果が出るはずです。

ゴルフ仲間と久し振りに会って仕事に関係のない話をしたり、あるいは奥さんと一緒に出かけて、夫婦の会話を楽しんだりできれば、これ以上の気分転換はないでしょう。

そして、本人が意識しないうちに精神的ストレスが解消されれば、これ以上良いことはありません。

いま、この瞬間の積み重ねが

人生の厚み

いつも笑顔で

どんな人をも包み込む

大きな 大きな心を持ちたい

ストレスの原因を見つけることが大切

自分が精神的ストレスに冒されていると知って、愉快な気持ちになる人は少ないでしょう。精神的ストレスで体調を崩すなんて情け無いと、さらに重い気持ちになるに違いありません。

でも、体調の悪さがストレス性だということを自覚させてあげたほうが良い結果になる場合もあります。原因をはっきりと知ることによって、自分の気持ちの持ち方しだいで、身体もラクになることを教えてあげられる場合です。

たとえば、若い女性の患者さんがひどい肩こりを訴えて来たときです。胃から背中の筋肉が相当硬くなっていたため、マッサージをして筋肉の張りを取り去り、背骨のバランスを調整しました。どうして、こんなに筋肉が硬くなってしまったのか、彼女の身体に聞いてみることにしました。

そっと背中に手を当てると、《ストレス》という答えが返ってきます。

さらに聞いてみると《忙しい》と一緒う答えが出てきました。

ここは、彼女の心の負担を小さくしてあげることが大切だと考え、はっきりと口にしてみました。

「かなりストレスを感じているようだね。せっかく結婚したのに、仕事で毎日帰りが遅くて、ご主人に夕ごはん作ってあげられないのがつらいんじゃないの?」

「なんでそんなんわかるの? でも先生のいうとおりや。私、どうしたらいいんやろ」

「とにかく仕事は早く終わらせるようにして、彼の帰ってくる前に家に帰れるようにしてごらん。ごはんの支度なんて、彼にも手伝わせればいいよ。一緒に作れば、はよう食べられる。そうすれば、肩こりもきっとようなるよ」

「そやね。そうしてみます」

自分が家に帰ったときに、すでに彼が帰ってきているということが彼女にとっては大きな精神的な負担となっていたようです。おそらく仕事場にいても、家に帰ってきても、心の負担を感じていたのでしょう。

このような場合は、その原因を解決しなければなりません。解決できれば、心の健康が取り戻され、身体も健康になっていきます。若い女性の肩こりには、こんな解決方法もあるのです。

彼女は、自分の心に重くのしかかっていたことが何だったのか、それを自分で自覚できただけで、再び健康をとり戻す糸口を見つけだせたにちがいありません。

こんなとき、私は自分の手が、患者さんの身体の声を聞けることが本当にうれしく思います。

苦しい時

つらい時

ムネがぐっとくる時

この壁が大きければ大きいほど

仏さまの慈悲もまた大きい

目次へ戻る

第4章 健康の「本質」を得るために

挑戦する勇気こそが宝

人生には大きな分岐点と思えるようなときが幾度かあるものです。そんなとき、どういう行動をとるかによって、人の生き方はさまざまに変わってくると思います。

おおいに失敗し、おおいにやってみよう。

私はいつもそう考えています。今の世の中、石橋をたたいて渡る人があまりにも多いのではないでしょうか。挑戦を避け、思考するばかりで時が過ぎ、後悔する人が多いのは残念です。

失敗して、人に迷惑をかけてはいけないと思うのでしょうか。それとも失敗することは生きていく上でマイナスにしかならないと思っているのでしょうか。

確かに、それも一つの生き方ではありますが、頑張って挑戦してみる勇気も必要ではないでしょうか。

挑戦し、失敗し、またやってみる。

その勇気と体験が自分自身の宝となると信じて……。

私は二十五歳のとき、純粋に”悟り”を求めて、一ヵ月間、山へこもったことがあります。自分自身をとことん見つめ、立派な人間になろうと夢を持って頑張りました。

まさに私の人生の分岐点でした。

中学、高校は大阪の私立学校へ通い、なんの迷いもなく平々凡々の人生を歩くと考えていました。ところが高校生のとき、折からのオイルショックで、いつのまにか退学していく同級生たちが何人もいました。父親の会社が倒産したり、失業したりして、学費の高い私立へ通うことができなくなったのでしょう。

人生は、いつ、どこでどうなるかわからない。自分自身の生き方をしっかり見定めよ。そう叱咤激励してくれる良い教師にも恵まれました。

そんな日々の中で、私も安易に大学へ行くのをやめ、自分の一生の仕事としてできる技術を身につけようと思い立ったのです。

当時、武術が好きだったこともあり、「柔道整復師」の資格をとることにしました。

高校卒業後、専門学校へ二年間通いながら、東大阪の可信整骨院で修業することになりました。住み込みです。治療の見習いから掃除までやるのです。私は生来、決して器用ではありません。はっきりいって不器用といっていいでしょう。先生や先輩たちが整骨や整体の技術をいろいろ教えてくれるのですが、なかなか覚えられません。先輩から転職を考えたらどうかといわれたこともありました。あとから入ってきた後輩が新しいテクニックをどんどん覚えて、独立してしまったときは、本当に悔しかったものです。

でも、その間、私は人とは違った経験もいろいろしました。

それは、この世の中には「目に見える世界」と「目に見えないけれども確かに存在する世界」があることを、何度も体験したのです(頁数の都合上、割愛させていただきます)。

実感した「見えない世界」の存在

私の祖母が病気になり、もう長くはないだろうと医者にいわれました。私は小学生のころに三年間、この祖母と暮らしたことがあったのです。

どうしても助からないのなら、せめて痛みや苦しみを味あわせたくない、楽にしてあげたい。そんな一念で、祖母の着物を持って、近くの山にある滝に打たれに行きました。親戚の兄さんと一緒でした。彼は剣道に強くなるために滝に打たれ、精神と身体を修業したいという思いをもっていたのです。

真冬の早朝四時、細い山道には月明かりも届かず、真っ暗な闇の中をダダダダッ……という滝の水音だけを頼りに登り続け、やがて水しぶきを感じる場所まで出ました。ローソクを高くかかげてあたりを見回すと、滝つぼの上の方に小さな社が見えます。

「あそこを向いて拝ませてもらおう」

祖母の着物を両手で持ち、私は凍りそうに冷たい水の中に入り、必死でお経を唱えました。私は仏教の信心の厚い家に育ったので、小さいころからお経を読むことはできたのです。

気が遠くなりそうな冷たさをこらえながら一心不乱にお経を唱えている、そのときです。私の合わせた両手がグッーと、ものすごい力で引っ張られました。

「兄さん、どないしょ!」

と叫んでも、両手はググッっとある方向に引っ張られていきます。わけもわからず引っ張られる方向を見ると、岩の表面に小さなお不動さんが彫ってあるではありませんか。お不動さんが私の手を、私の身体を引っ張っているのです。

ガクガクするほど怖い体験でした。

ところが、しばらくすると、そのとき私の身体に起こった不可思議なことがいったい何だったのか、確かめたくなるのでした。そして再び未明の山に登り、滝に入ると、なんとまた同じ力が私の両手を強く強く引っ張ったのです。

一緒に行った親戚の兄さんも、これは尋常なことではないと思ったのでしょう。私を祈祷師のところへ連れていってくれました。

すると、女性の祈祷師は、私たちが何も言わないうちに、滝の場所も、そして私が滝に打たれにいった理由も、そのときの気持ちもズバリ言い当てたのです。そのうえ、

「この子は、ほんまに素直な子や。いまにいろいろなことがわかる子になる」

と言うのです。

(いろんなことがわからなくてもいい。こんな気持ちの悪いことはいやや)

それが私の正直な気持ちでした。

もう山に登ってみようという気も起きず、仕事に精を出す毎日を過ごしていた私ですが、不思議なことが再び起きたのです。

ある日のこと、往診先の家で突然、私の右手が勝手に動き出し、左手の掌に「あしたたきあびろ」と書いたのです。信じられない思いでいるうちに、再び指が動いて「あしたたきあびろ」と二度も書くではありませんか。

そのまま無視する勇気もなく、翌朝また暗いうちに起き出し、再び滝に打たれるために山に登ったのでした。

確かに目に見えない世界があることを私は強く実感しました。

自分は何か見えない力に動かされている。その力とはいったい何なのだろうか。それを知りたくていろいろな本を読んでみました。いろいろな人にも会いました。

私に働きかけてくる力はいったい何なのか?

でも、私を納得させてくれるものには出会えません。

不思議な世界が自分のすぐそばにある。目には見えないけれども、あるのは確かだ。そうでなければ、私の身体が私自身の意思に反して動くはずがない。

それを解明したいという思いは強くなる一方でした。

当時、私は、整復師としての住み込み修業も六年がたち、そろそろ先生から独立したらどうかといわれていた時期でした。しかし、もし独立して自分で治療院を始めたら、この不思議な世界の存在を解明する時間は持てなくなってしまうにちがいありません。

その前に、なんとしても”何か”をつかみたいと思いました。

そうだ、山へこもって”悟り”を開こう。こうなったら、自分で悟るしかない。

この不可解な気持ちを抱いたままでは、整復師として病める人の役に立つ仕事はできない。でも、私は人の苦しみを救える整復師になりたい。チャンスは今しかない。

一ヵ月間、山へこもろう。一ヵ月たったら山を下りて、開業へ向けて全力を尽くそう。私はそう決心して、六年間お世話になった先生のところを退職しました。

“悟り”を求めてたった一人の山ごもり

今から思い出しても、本当に純粋な気持ちでの山ごもりでした。

でも周囲の人たちは、私の頭がおかしくなったのではないかと思ったようです。

山ごもりの地に決めた奈良県山添村広代の村中の細い道を上がった所は、ふだんは誰も近寄らないような場所でした。ここならだれにも邪魔されずに”悟り”を開けるかも知れない……。そう思ったものの、飯を炊く煙を山火事と思わせてもいけません。地元の人たちに一ヵ月間、山へこもることを伝えました。

一人用の小さなテントを張り、食料は一日一合の米と小梅二粒、それに海苔の佃煮を一びん、これだけで一ヵ月間を過ごすつもりでした。

さて、悟りを開くためにはどうしたらよいのでしょうか。ハタと困りましたが、とにかくこれまで自分のしてきた行いを反省することにしました。

(何も悪くない弟の頭をなぐった。ごめん)……(患者さんへの電気治療のかけ方が下手だった。申し訳なかった)……などと思い出すままにつぎつぎと胸の中で詫びていきました。

山へ入った翌日から激しい雨が続きました。テントから出ることも出来ず、飯盒で米も炊けません。小梅をしゃぶり、ひたすら反省を続けるしかありません。

四日目の夜、突然、山を下りたい衝動にかられました。

雨は相変わらず降り続いています。

もういやだ、悟りなんて求められなくてもいい。今から山を下りよう。

ところが、登って来るとき、細く険しい道にはヘビが何匹もいたのを思い出しました。夜行性のヘビのこと、今ごろ雨の中でぬるぬると動きまわっているにちがいありません。そう考えると、真っ暗な山道を下りて行く勇気もありmせん。私はいつしか眠っていたようです。

翌朝、空は見事に晴れ渡っていました。

よし、今日一日だけ辛抱しよう。第一、四日間で下りたら、みんなに笑われる。あれほど反対を押し切り、お願いして登ってきたのではないか。

そして夜になると、やっぱり下りればよかったと涙がボロボロこぼれてきます。

そんな毎日の繰り返しでした。

長い長い一日です。しだいに反省も瞑想もできなくなってきました。瞑想しようとする自分の意思とは反対に「下りたい」という気持ちばかりが大きくふくらんできて、悟りを開きたいという私の心を押しつぶそうとします。人間の弱さだけが身にしみて感じられました。

(そのうち慣れる、絶対に慣れる。慣れるから、そのときまでは頑張ろう)

気持ちがひるみそうになるときは、テントの中やテントの周囲をひたすら掃除しました。何も考えずに掃除をして、きれいなると、すごくうれしいのです。そこにもう一度きれいな心で瞑想を始めてみようという気持ちになるのです。

ふと心に浮かんだことをノートに書き溜めていきます。疑問が出てくると、これも書いておきます。悟りとは、あるとき、ふと自分に訪れるのではないか。そんな期待があったように思います。

このときの私は、悟りは自分自身の足元にあることに気がついていませんでした。

悟りとは、向こうからやってくるもの、あるいは与えられるものだという大きな勘違いの中で生きていました。目に見えないものは、見えなくていいのです。

今になってわかるのですが、悟りとは、私たちの毎日の生活の中に、ごくごく当たり前の中にあるのです。朝、目が覚めてからの家族の触れ合いの中に、食事の中に、学校や社会に中にあるのです。なんら特別の所にあるのではなく、何気なく暮らしている自分自身の心の中にあるのです。

一瞬一瞬の積み重ねの中にこそ、大悟へと到る道があるのです。

私たちはm、一人ひとりが生きることによって、他の人の苦しみを取り除くものでなければなりません。

この精神が生き方を変え、生きがいを生み、人生を変えるのです。

個人の悟りなどいかに深くても、宇宙の眼から見れば、小さなものです。「一人の悟りはいまだ真の悟りにあらず」です。しかしそれが一つ「大衆とともに生きる」という精神が加わると、これはもはや国宝級の本物となります。

「悟り」とは、神や仏が見えることではないと思います。まして、仏の神力による悟りなどありえません。「悟り」は大衆とともに今を生きる智慧であり、慈悲なのです。

でも、当時の私は、まだ気づいていませんでした。

気づかないままに、なんとか悟りを開きたいと一人で必死に求めていたのです。

やがて、一ヵ月が過ぎました。

その日、空は雲一つなく明るく晴れ渡っていました。

もちろん確かな言葉としての悟りはありませんでしたが、とにかく思いを果たしたという満足感だけは得られました。

自分の弱さも知りました。でも、闇や孤独に負けない強さも、私の中にはありました。

(もう迷うことなく、整復師として立派に生きていこう)

下山する道を一歩一歩踏みしめながら、私はそう強く決心したのです。

法華経との運命的な出会い

家族や、修業をさせてもらった先生のいる大阪を離れ、三重県名張市桔梗が丘駅前で開業しました。独立するからには、誰も頼ってはいけない。それには離れた場所がいい。というよりも、当時の私の資金では大阪ではとても開業できなかったのです。あたり一面に水田が広がる新興住宅地なら賃貸料も多少安かったのです。

とにかく一生懸命働きました。未熟な自分がどうしたら患者さんの痛みをラクにしてあげられるか、どうしたら一日も早くひどい肩こりや腰痛を解消してあげられるか。そればかりを考え、いいと思われる治療方法は何でも取り入れていきました。

そんななかで、患者さんとの心の触れ合いも少しずつできていったようです。

ある日、一人のおばあさんが、

「先生、これ読んでみたら」

と置いていってくれた本がありました。仕事が終わったあと、ようやく手に取ってみると、それは立正佼成会が出版している『庭野日敬法話選集三巻』でした。こんな本を置いていって、私を勧誘するつもりかな。そんなことされたら、面倒でいやだな。そう思いながらもパラパラとめくっていくと、そこに書かれている言葉が私の心にスッと入ってきたのです。

開業以来、悟りを追究する余裕もなく、無我夢中で過ごしていた私でした。

患者さんのためにもっと効果のある治療方法を身につけたい。もっと気持ちよく治療を受けてもらえるような治療院にしたい。試行錯誤の繰り返しの中で、いろいろな想いが私の内部に蓄積していたのでしょう。

ページをめくっていくにつれて、そこに書かれている教えが、まるで乾いた砂地が水を吸い込むように私の心に染み入ってきたのです。歓喜と感動が私を満たしました。

なかでも「心と行いをきりかえることによって、人生はどのようにも変わりますよ」という教えは、疲れた私を奮い立たせてくれるようでした。

「自分自身の心と行いをきりかえることによって、よりよい人生に変えていくことができる」――その言葉の重みが、必死で毎日を過ごしていた私には心底、納得できたのです。翌日から、私は時間を見つけては本を開き、その言葉を心に反芻してみました。

それが私と法華経との出会いでした。

以来、毎朝毎晩のひととき、法華経の一節を読むのが私の大切な日課となりました。

私は元来、理論的に説明のつかないことは納得できない性格です。それまでのいくつかの経験を通して、目には見えない力が存在していることは実感していましたが、なんとかそれを科学的に、理論的に説明したいという気持ちが常にあったのです。

また、治療においても、科学的に説明のつかないことはなかなか取り入れられないというところがありました。

私自身は十八歳のときから東洋医学を勉強してきました。東洋医学では、全身のツボを刺激して治療しますが、そのツボを刺激することによって、どういうメカニズムで治るのかというと、いまだ明確な理論が確立されていないように思います。

私も東洋医学でいうところの”気”の存在を信じていますし、身体の中の気の流れが、なんらかの理由で滞り、それが身体の痛みや病気として出てきているということも理解できます。

でも、その発症のメカニズムとなると科学的に説明するのはむずかしいのです。

一方、西洋医学は科学的な理論がはっきりしている点では優れていると思います。

悪い部分を切り取る。細菌を死滅させる薬を投与する。そうすれば治る。まさに明確な理論に裏づけられています。

逆に、理論的に説明がつかないことは認めない。科学的データで立証できないことは、治療方法としても、薬としても認めないというところがあるわけです。

どちらが優れているかなどということは、私には論じることはできません。また、論じるべき問題でもないでしょう。

とにかく、どんな治療方法が患者さんを救うことができるか。

治療率を高めることができるか。

私の関心もそこにしかありません。

東洋医学の治療方法では、一つの治療だけで良くなる人と良くならない人は、平均すると半々ではないか。それが私の正直な実感です。

「このツボを刺激したら痛みがきれいになくなった」という患者さんもいれば、「このツボを押せば楽になるといわれているのに、ちっとも楽にならない」という患者さんもいるわけです。

“半々”では、医学として、かなり確率が低いのではないだろうか。もう少し高い確率で良い結果を出せないものだろうか。痛みをとるためのもっと確かな方法はないものだろうか。

そんな思いにとらわれ、より良い治療方法を模索していたときにめぐりあったのが、法華経だったのです。それは本物の「気」でもあった訳です。

「諸法実相」の教えで確立した人生観

法華経というお経はいったい何が書かれているのでしょう。

世間ではややもすると「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と大きな声でお題目を唱えることや、うちわ太鼓を叩いて歩いたりするイメージが強かったりするようです。また、このお経だけが正しくて、他のお経はすべて間違っていると説いていると勘違いをされている方が多いことは残念でなりません。

法華経は、すべての人が無限に変わることができると説いています。「私」は何のためにこの世に生を受け、生きているのだろうかということが、あらゆる角度から説き明かされています。そして神仏は、すべての生きとし生けるものにお慈悲をかけられているということが、とても一口では言い表せないくらい素晴らしいかたちで説かれています。

法華経行者として有名な日蓮聖人は一切経を読まれ、あまりの素晴らしさから、当時、あのように他経を排斥されたのではないでしょうか。私でさえも日蓮聖人の心がわかるような気がします。本当の法華経は、あらゆる神々を包容し、すべての人に仏性(仏になる性質)があり、すべての出来事を肯定したお経なのです。

日蓮聖人にとって法華経との出会いは、人生を一変させる出会いだったのでしょう。

私にとっても法華経との出会いは素晴らしいものでした。

みなさんにもきっと経験があるはずです。

身震いするくらい素晴らしい人との出会い。一冊の貴重な本との出会い。

風景、絵、そして一輪の花とさえも、心をとらえて離さない出会いがあるものです。

それだけではありません。そのときには分からなくても、後々になって、自分の成長とともに気づく出会いもあります。それは人や本だけでなく、自分の身を襲った病気であったり、失敗や挫折だったりすることもあります。

仏教では、この出会いを「因縁」といい、世の中すべての出会いを神仏の「慈悲」というのです。神仏の智慧からみると、これが「諸法の実相」です。すべての教えは「諸法の実相」から出ていて、一つとしてここから外れることはありません。

私自身、この世で生きてきて何が一番良かったかといえば、庭野日敬氏を心の師とし、この「諸法実相」の教えにめぐりあえたことといえます。

この教えによって私自身の人生観が確立されたことなのです。

その結果、私の整骨治療師としての治療方法も大きく変わってきました。

それまでは、患者さんの「身体」とのみ向き合ってきたのが、患者さんの「心と身体」にともに向き合うようになったのです。

心と身体は一つのもの

ここで、「諸法実相」とはどういう教えか、みなさんにもお話したいと思います。

いまでは私の生き方の根底にある「諸法実相」の教えは、きわめて論理的な教えです。まず「諸法」とは、この世の中の「あらゆる存在」のことです。「実相」とは、「真実のすがた」と考えてください。つまり「全存在の真実のすがた」ということです。

真実のすがたを見透すことがいかに大切かということなのです。

真実のすがたを説き明かすためにい「十如是」のはたらきを理解する必要があります。

「如是」とは仏教の言葉で「必ず」という意味です。一〇のはたらきを列挙して「宇宙全体あらゆるものの存在の本当の姿はこうである」と説明しているのです。

「十如是」とは、「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」の十です。

「本末究竟等」の本末とは、「相」が本、「報」が末で、はじめと終わりがすべて等しいということです。

「如是相」=あらゆる存在の姿や外見、人間でいえば手相とか人相です。

「如是性」=性質。姿あるものは必ずそれにふさわしい性質をもっています。

「如是体」=本体。性質のあるものは必ず主体があります。姿と性質を含む全体を本体というのです。

「如是力」=エネルギー。本体のあるものは、必ず外へ向かって何らかのエネルギーを持っています。

「如是作」=作用や影響、エネルギーには、外へはたらきかける作用があります。

「如是縁」=原因以外のすべて。

「如是果」=結果。関わりあった因縁からは、必ず何らかの結果が生じます。

「如是報」=影響。結果はさらに周辺に波紋を広げるように影響を及ぼしていきます。

「如是本末究竟等」=この「相・性・体・力・作・因・縁・果・報」はすべて等しく一つの法則でつながっています。「本」にある姿あるものは周囲に触れ、関わり合いながら、やがて「末」に広く影響を呼び起こしていくが、このつながりを究めれば、それぞれはすべて等しい、というわけです。

じつに理路整然とした教えです。

「所謂諸法(いわゆる諸法とは)、如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等は方便品第二の経文です。

これを人間の生き方におきかえてみましょう。。

姿と性質と身体を表す「相・性・体」は一人ひとりの人間を表していると考えていいでしょう。心と身体をもつ一人ひとりの人間です。

「力・作」は、人間の行為です。

行為をする人間、それは「私」です。したがって「因」とは私のことなのです。

「縁」は私以外のものすべてです。

私が私以外のものに触れると、何らかの結果が生まれ、影響を及ぼしていきます。「果報」を生み出すわけです。

そして、これら一連のことはすべて関連しています。しかも、すべて等しく関連しているというのです。

この「すべて等しい」という部分が私の心をとらえました。

心と身体と行為があり、それが私というものを作り上げているのなら、心と身体を健康にして、行為を立派にしていったら、きっと良い結果が出てくるはずです。

良い結果は、私と触れ合う人たちに、さらに良い影響を及ぼしていくはずです。

私は、この「諸法実相」の教えに基づいていろいろなことを考えてみました。

これまでの自分の人生や、これからの人生について考えてみました。

心のあり方で人生は変わる

そこで気がついたのです。

私たちは、うまくいっているときはいいのですが、いったん思いどおりにならないと「なぜ?」と外へ向かって問いかけてしまいます。相手や、自分以外のものに原因があると考えてしまうのです。

でも、これは間違いなのです。原因は常に「私自身」なのです。相手は原因である私に触れ合っているだけなのです。「因」と「縁」の関係なのです。「因」がなければ「縁」もありません。「私」がなければ「相手」もいないのです。

私自身の「相・性・体」がまず初めにあり、すべてそこから生じてくる関係というわけです。

つまり、自分の人生は、自分の「相・性・体・力・作」のあり方によってどのようにも変えていけるといっていいのではないでしょうか。

結果や影響をより良いものにするか否かは、自分自身の心のあり方しだい。心の持ち方しだいなのです。

私自身の「相・性・体・力・作」をプラス(良いもの)にすれば、そのあとの「縁」がマイナス(良くないもの)であったとしても、その結果生じてくる「果・報」をプラスにすることができるのです。

なぜなら、「私」がいなければ「相手」はないからです。

そして「報」は、再び私自身の「相・性・体」へ、そして私自身の「力・作」へと循環していきます。

たとえば、電車の中で、あるおじいさんに寂を譲ってあげたとしましょう。ところが、おじいさんは『私はそんなに年寄りじゃないし、健康のために立っているのだから余計なことをしないでくれ』と腹を立てたとします。席を譲った人は良いことをしたつもりなのに、なぜ、そんな悪い結果が出たのでしょう?

確かに、その人の心も行為もプラスだったのに、マイナスの「縁」に触れたために、結果もマイナスのように感じられます。でも「報」は相手だけでなく、自分自身の心にも及びます。

あの人は怒ったけれど、私自身は勇気を出して席を離れてよかったな、と思えれば、その人にはプラスの「報」がおとずれるはずです。

プラスの「報」は、その人の心を再びプラスにして、新たなエネルギーが出てくるにちがいありません。プラスのエネルギーです。前向きに生きていくエネルギーです。

私はそれまでの経験で、患者さんの身体のことはよくわかるようになっていました。患者さんの身体に触れれば、脊椎のどの部分がズレているとか、どの部分の筋肉が固くなっているかはすぐにわかります。そこをどう治療すれば痛みがなくなるかということは経験上わかることが多いのです。

しかし、一〇〇パーセントではありません。良いと思う治療方法を試みても、治らない場合もあるのです。あるいは、そのときは痛みがとれたのに、しばらくするとまた同じような痛みが出てくるのです。

私は、「それは私自身の治療技術が未熟なためだ、ひたすら勉強するしかない」と一生懸命に知識を積み、技術を磨こうとしていました。それしか治療率を高める方法はないと考えていたのです。

「諸法実相」の教えは、そんな私に新たな眼を開かせてくれました。

人間は身体だけではなく、心と一体となってはじめて存在します。したがって、心が身体の痛みの原因となっていることもあるはずです。

「身体的ストレス」ではなく「精神的ストレス」が、身体の痛みとなって現れていることもあるにちがいありません。

もしそうならば、心の健康を取り戻さなければ、身体の健康も取り戻せないといえるのではないでしょうか。

また、会い難き人に出会った。それが「一期一会」ということです。

私と患者さんの「一期一会」なのです。

本末究竟等という私たちの目から見れば、神仏の大きな智慧であり、慈悲でもあるのです。

この痛みも、ただならぬ慈悲なのです。

この病いも、ただならぬ慈悲なのです。

何もかもが寸分のくるいもなく現れてくる現象なのです。

こうなれば手を合わす以外ありません。

感謝する以外ありません。

人間にとっての「諸法実相」とはそういうことではないでしょうか。

そう理解した私は、「諸法実相」の教えを治療の根本におこうと決心しました。

そのためには、まず私自身の心と身体が健康でなければなりません。

私の心と身体がプラスの状態でなくて、どうして患者さんの心と身体をプラスにすることができるでしょうか。「因」は私であり、患者さんは「縁」だからです。

いや、究極の目から見れば、同じ宇宙の一つの生命体なのです。切り離して考えられない大いなる生命体なのです。

そういう精神を現実に降ろしてみると、私のプラスのエネルギーが患者さんに作用し、「治癒」というプラスの結果が実現されていく。そして、その影響が再び私に及んで、私もまたよりいっそう健康になっていく。――それが私と患者さんとで実現する「諸法実相」だと考えたのです。

患者さんの身体が答えてくれるようになった!

私の手に、患者さんの身体が答えてくれるようになったのは、私の姿勢がこのように変わったときでした。

筋肉のこりやしこりとはまったく違う”感じ”が、患者さんの身体から私の手に感じられるようになったのです。

それまでは、患者さんの身体のこりやしこりの反応がなくなると、

「はい、今日はこれでいいですよ」

と治療を終わりにして、

「ぶりかえさないように、これからは、こういうことに注意してくださいね。また、痛かったら来てくださいね」

とアドバイスをしたり、湿布薬を渡して帰していたのです。

患者さんの中には、まだ多少の痛みが残っていても、

(これだけやってもらったのだから……)

という気持ちからか、「おかげさまでラクになりました」と帰って行く人もいました。

(ああ、まだ痛みは残っているな)とわかっていても、次の予約の患者さんが待っていると思うと、なかなか十分な治療ができないこともありました。

しかし、「諸法実相」の教えを私の治療の根本に置こうと決めてからは、

「患者さん自身が『ラクになりました』というまでは、この治療院から出さないぞ」

と決心したのです。

治療技術の修練にもいっそう努力しました。効果があると思われる治療方法は何でも取り入れていきました。

そして、患者さんの身体に触れるときは、心の中で、

(早く治ってください。お願いします。痛みがなくなったらどうぞ教えてください)

と一心に念じました。

「痛みがとれた」と患者さんが言わない限り、自分の治療院から出さないと決心したわけですから、なんとしても痛みに消えてもらわなければなりません。

私の全身のエネルギーを注いで、患者さん一人ひとりに対する毎日でした。

そんなある日、いつものように、どうしたら少しでも早く痛みがとれるか、どうしたらこの不快なこりをとってあげられるかと考えながら患者さんの身体をマッサージしていると、(あれ、前の違うな)という”感じ”が指先に伝わってきたのです。

その瞬間、

(これが、痛みがなくなったという答えかな?)

という思いにとらわれました。

もし答えなら、しっかりと聞き取らなければなりません。それからの日々、指先に全神経を集中させて患者さんの身体に触れ、その”感じ”を患者さんの症状に関連づけていくうちに、私はいくつかの法則を発見したのです。

皮膚の下には多くの筋肉が幾層にも重なっています。筋肉繊維の走行に対して横方向に指を触れたときにひっかかるような反応を感じる場合は、比較的軽く、痛みも少ないのです。

そこで、指の反応をとらえながら、実際に患者さんに問いかけてみました。

「今日は、かなり痛みがありますね」

「そうなんです。昨夜からひどいんです」

別の患者さんには、

「だいぶ痛みがやわらいだようですね」

「はい、ずいぶん楽になりました」

というように、私の手がとらえた反応がピタッ、ピタッと合うようになってきたのです。

これだけ患者さんの身体の調子と、私の手に伝わっている反応とがピタリと合うのなら、今度は患者さんの身体にこちらから問いかけてみたらどうだろうか?

問いかけてみたら、同じ答えが返ってくるだろうか?

そんな疑問もわいてきます。そこで、筋肉のこりは感じられないのに背中が痛いという患者さんの身体に手を当てながら、

《この人の背中が痛いのは内臓が悪いのが原因ですか? イエスだったら、ひっかかってください》

と心の中で質問してみると、なんと指にグッとひっかかる反応が返ってきたのです。

《では、悪いのは肝臓ですか? イエスだったら、ひっかかってください》

すると、指はスルリと滑り、ひっかかりません。

《それでは、すい臓ですか?》

今度は私の指に強い摩擦のような感じがありました。

肝臓は悪くないけれど、すい臓が悪くなっていて、そのために背中が痛み、全身に倦怠感が出ていると考えていいのでしょうか。

それからというもの、それぞれの患者さん自身の身体に聞いていったのです。

たとえば、

《原因は内臓ですか?》

ノーの場合には私の手に何の反応も返ってきません。

《では、疲れからですか?》

やはり反応はありません。

《精神的ストレスからですか?》

すると、どうでしょう。私の指にググッと確かな反応が返ってくるのです。そこで、

「会社で何か困っていることはありませんか?」

と患者さんにたずねてみると、

「そうなんですよ、今日も上司とガツン! とぶつかっちゃったんですよ。いやになっちゃいますよ」

というではありませんか。まさしく、この患者さんは会社での人間関係のトラブルからストレスが蓄積し、身体の調子まで崩しているのです。それでも本人は、なぜ自分がこんなに身体の調子が悪いのかわからずに、私の治療院へ来ているわけです。

これだけ正確に答えてくれるのなら、治る方法も患者さんの身体が知っているのではないでしょうか。果たして教えてくれるでしょうか。

そこで、内臓のどこかが悪いと出ていれば、《薬療法ですか?》《食事療法ですか?》と患者さんの身体に触れながら聞いてみました。質問のしかたもいろいろ変えてみました。

そして、いつのまにか、答えをもらえるようになったのです。

私の質問への答えが「イエス」ならば、私の手にひっかかるような反応があり、「ノー」ならば何の反応も返ってきません。もし「薬」と出れば、患者さんには専門の診療科目のある病院へ行くことを勧めます。「食事療法」と出れば、食生活を改善すればきっと良くなるはずですよ、とアドバイスします。

(なんで、そんなことまでわかるのだろう?)と怪訝な表情をする患者さんもいます。

でも、私の指摘が的確である場合が多いため、しだいに、私のアドバイスを喜んでくれる患者さんが増えていきました。もちろん私にとっても、この上ない喜びでもあります。

「本質」と「本質」が応え合う

こうして、患者さんの身体に手を当てるだけで、患者さんの身体からさまざまな答えがもらえるようになると、これはいったいどういうことなのか、ぜひ解明したいという思いにかられます。

振り子などを使って人間の潜在意識を知ろうとする方法に「ダウジング」というものがあります。その人の潜在意識に応じて、振り子が揺れたり、止まったままだったりするのです。

語源である「ダウズ」は、”占い棒で水脈や鉱脈を見つける”こと。つまり、表面からは見えないけれども、”確かに存在するもの”を発見する方法なのです。

患者さんの身体に手を当てるだけで答えがもらえるという現象は、霊的なことなのか? 神や仏の力なのか? それとも……思いつく限りのことをダウジングで試していきました。すると、

「私が相手を本当に治してあげたいという本質が、相手の治りたいという本質と呼応して、答えをもらえる」

ということがわかったのです。

私が(患者さん自身がラクになったというまで帰したくない)(なんとかして痛みをとってあげたい)と心の底から思い、全能力と全エネルギーで治療に精を出していた結果、患者さんの身体と対話できるようになったのだというのです。

同時に、霊的なものではないことがわかり、ほっとしました。

患者さんの中には「霊的なお告げです」などといったら、それだけで拒否反応を示す人もいるにちがいありません。やはり誰にでも納得できる理由が必要です。

「本質と本質とが触れ合い、呼応する」という説明も抽象的かも知れませんが、私自身は納得できました。

法華経の「諸法実相」の教えは、この世の中のすべての存在は関連し、影響を及ぼし合っていると説いています。私と患者さんが触れ合って、その触れ合いが「本質と本質とが呼応する」ような触れ合いだからこそ、良い結果、良い影響が出るのでしょう。

良い果報は再び私のもとへ返ってきて、私の心を厚くし、技術を高めてくれます。

私の心が厚くなれば、よりいっそう患者さんの本質を理解し、痛みや不調の原因を解明していくことができます。

私の技術が高まれば、より早く、より的確に患者さんを治療し、痛みや不調を取り除くことができるようになります。

「十如是」の教えどおり、患者さんと私との間に広がるこれらの関連はすべて等しく価値あるものであり、どれ一つとしておろそかにすることはできません。

いちばん基にあるには、(なんとしても患者さんの痛みをとってあげたい。楽にしてあげたい)という私の思いです。そういう気持ちで治療をしていると、これまで以上に早くラクになる患者さんがどんどん増えてきました。

患者の筋肉の固いこりがとれ、痛みもなくなると同時に、私の手に返ってくる反応もなくなるのです。

たとえば、ひどい腰痛できていた患者さんの背骨を正常なバランスの矯正すると、その瞬間に、私の手にそれまであった反応がスッと消えていきます。

(あ、これでもう大丈夫だな)と判断し、患者さんに、

「今、とれましたよ」

と伝えるのですが、患者さん自身はわからないこともあるのです。

「えっ、もうですか?」

と不思議そうな顔の患者さんに、

「私には、わかるんですよ。さあ、立ってみてください」

いわれるままにおそるおそる立ち上がった患者さんは、そっと身体を動かしてみて、

「あっ、ほんとだ、楽になりました!」

と大よろこびしてくれます。

その間、およそ五、六分です。

また、こういう例もたびたびあります。

膝の痛みを訴えていた患者さんの場合は、治療をしていくうちに手に返ってくる反応がなくなったので、

「さあ、もう大丈夫」

と椅子から立たせると、

「まだ痛い。変わっていない」

と顔をしかめます。

「そうですか、じゃあ、もう一度座ってください」

再び手を当ててみるのですが、私の手に反応する部分はどこにもないのです。したがって私としても治療するところはないわけです。
「とにかく私の手には反応がなくなっていますから、きっと良くなります。今日はこれで帰って、様子をみてください」

すると、次に来院したときに、

「このまえ先生にもう大丈夫といわれたとき、家に帰る途中は痛かったけど、家に着いたらウソみたいに痛くなくなった」

と言うのです。それほど私の手の反応は確かなものなのです。

誰にもある「本質」を知る力

患者さんの身体から私の手に返ってくる反応がとれた瞬間ほどうれしいものはありません。自信をもって、「さあ、治りましたよ」と言えるからです。

でも、この反応はたいへん微妙なものです。そのため、患者さんと次の患者さんの間をパッと変わるとわからない場合もあります。

たとえば五十肩で苦しんでいた患者さんに、

「今日はどうですか?」

と聞きながら、首から肩にかけて触れてみると、全然反応が返ってきません。

「もう痛み、ないんじゃないですか?」

「いや、痛いんですよ。右手を動かすとビリッとくるんです」

(アレ、おかしいな……何にも反応ないのに……)

と思いながら、痛いという部分を静かにさすっていると、だんだん手に「痛みがある」という反応が出てきたのです。

おそらく、前の患者さんがすっかり良くなって治療室を出ていったので、私の手には、その患者さんの反応がまだ残っていたのでしょう。

つまり、一人一人の患者さんの本質と私の本質が呼応するために、私の本質がもとにもどるために少し時間がかかるわけです。

それがわかってからは、新しい患者さんに接するときには、その日の調子を聞いたり、家族の調子を聞いたりしながら、しばらく”間”をあけるようにしています。

「先生、どうして服の上からでもわかるんですか?」

と聞く患者さんもいますが、それはきっと私が、人間の骨格や筋肉の構造やメカニズムを知り尽くしているからでしょう。毎日、毎日、何十人という患者さんの身体に触れているのですから。

たとえば、車のメカニズムにとても詳しい人は、タクシーに乗ったり、他人の車に乗っているとき、その車の走行音や乗り心地だけでエンジンなどの調子の悪い箇所をピタリと言い当てたりするものです。運転している本人さえも気がつかず、「え、そう?」なんてことはよくあることです。

つまり、その人は、車の出している音や振動の状態を正確にとらえる力をもっているのでしょう。

そういう意味で、私は患者さんの身体に触れることによって、患者さんの身体の状態を正確にとらえることができるのです。

人間の手の平は、身体の中でもとくに微妙な感覚を感じることができる場所です。普通の人でも、ツルツルした感じ、ザラザラした感じ、すいつくような感じなどかなり微妙な感触を感じ分けているはずです。しかも私は、毎日多くの患者さんの身体に触れながら、患部の状態をつかもうと神経を集中しているわけですから、とくにその感覚がとぎすまされたのでしょう。これは治療師なら誰でも同じはずですが、「わからない」という人も多いようです。

そういう人は精神的感覚能力にまだ未開発な部分があるにちがいありません。努力しだいで、きっと誰でも感じられるようになるのではないでしょうか。

私は、なんとかして患者さんをラクにしてあげたいという思いが強かったぶん、手の平の感覚がより鋭くなったのでしょう。そして、今では、その感覚がますます強くなってきていると感じるのです。

また、患者さんに接するときには、私は自分が仏様や神様になったつもりでいます。不遜な言い方かもしれませんが、「神仏と一体になっている」、そう思うことによって自分の力をより高めたいと思っているのです。本当の力以上のものが出せるのではないかと思うのです。そして、その結果、良くなる患者さんが増えるのなら、きっと仏様のお慈悲もあるにちがいありません。

大いなるものに

生かされて生きるならば

精一杯 生きねば

よろこんでもらえるよう 生きねば

役立たせてもらえるよう 生きねば

たった一度の人生だから

目次へ戻る

第5章 これだけは知っておきたい健康の知恵

「冷やす」か「温める」かで治り方がまったく違う

身体を痛めたとき、冷やしたほうがいいのか、あるいは温めたほうがいいのか迷うことは多いと思います。「冷やす」か「温める」か――これは、その後の患部の治り方にまで関係してくる大事なことです。

まず、骨折、脱臼、あらゆる打撲や挫傷、捻挫、突き指などの初期には必ず冷やすようにします。

なぜなら、折れたり、脱臼した骨の周辺の筋肉や、打撲や捻挫をした部分の筋肉が炎症を起こしているからです。炎症とは、筋肉の細胞や組織がこわれて、熱を出している症状で、腫れて痛みます。筋肉の中の血管がやぶれて内出血が起こる場合もあります。

このようなときは、患部を十分に冷やして、炎症をおさえることを最優先します。

氷や冷たいタオル、あるいは冷湿布薬、冷却パックなどを使って、充分に冷やしてください

やがて、うずくような強い痛みが始まり、内出血も止まり、腫れも引いてきたことがわかったら、数日冷やすのをやめます。

しばらく様子をみて、炎症が治まったようなら、今度は逆に温めましょう。炎症のあとの筋肉は硬く収縮していることが多いので、温めて筋肉の緊張をゆるめてあげるのです。神経や血管も腫れた筋肉で圧迫され、傷ついています。温めることによって再生活動を活発にしてあげるわけです。

炎症が治まった後も冷やし続けていると、筋肉の収縮がさらに進んでしまいます。そのため、痛みがなかなかとれなかったり、腫れは引いたのに、なんとなく筋肉に不自然な感じが残るということになりがちなので注意が必要です。

一方、必ず温めたほうがいいのは神経痛、筋肉疲労による痛み、寝ちがいによる音や肩の痛みなどです。

また、原因はわからないけれども痛みがあるという場合も、とりあえず温めておくといいでしょう。原因不明ということは、少なくとも打撲や捻挫ではないからです。

神経痛はとくに温めることが大切です。ほとんどの神経痛は、硬くなった筋肉によって神経が圧迫されていることによって起こります。もちろん、脊髄から出ている神経が椎骨のズレやねじれによって圧迫されて起こる場合もありますが、その場合の痛みはひどく、脊髄の調整をしない限りは痛みはとれません。それ以外の神経痛は、筋肉内の神経が硬くなった筋肉繊維に押しつぶされ、痛みやしびれとなって現れているのです。

たとえば、正座したときに足先までしびれて、感覚がなくなってしまうことがありますね。あれは正座したために膝から下の筋肉が自分の体重でギュッと押され、その結果、筋肉の中を走っている神経も押しつぶされ、神経線維間の電気信号(正確には活動電位といいます)の伝達ができなくなるからです。そのため感覚がなくなってしまうのです。

そして立ち上がると、筋肉や神経への圧迫がなくなるため、神経に再び電気信号が流れ始めます。ビリビリという、まるで電気が走るようなあの痛みこそ、再び神経が活動を始めた証拠なのです。

話がそれてしまいましたが、神経痛は、筋肉内の神経が筋肉のこりや収縮によって圧迫されるために起こっている場合が多いのです。そのため充分に温めて、筋肉のこりを取り柔らかくしてあげることがとても効果的なのです。

筋肉疲労による痛みも同じです。スポーツや重労働、あるいは同じ姿勢を長時間続けていたために筋肉が異常に緊張し、柔軟性がなくなってしまいます。その結果、神経も圧迫されてしまっているのです。

筋肉内を通っている毛細血管内の流れも悪くなります。したがって疲労回復に必要な栄養分も運ばれてきませんし、細胞内でできた老廃物も運び去ってくれません。しだいに乳酸などの疲労物質が筋肉内にたまり、痛みの原因となっていくのです。

そこで充分に筋肉を温めて、柔らかくして、正常な活動にもどしてあげることが何よりも大切です。

温泉療法の落とし穴に注意!

昔から神経痛には温泉療法が良く効くとされています。

たっぷりのお湯にゆっくりとつかれば、硬くなっていた筋肉もしだいに柔らかくなり、血行も良くなります。筋肉のこりがとれれば神経への圧迫もなくなり、痛みやしびれも解消されていくのです。

ところが温泉療法にも落とし穴があります。

たとえば温泉宿に着くと、浴衣に着替え、温泉にゆっくりと入ることでしょう。身体が温まるにつれて、硬くなった筋肉が少しずつやわらいでくるのが実感できるのではないでしょうか。血液が気持ちよく流れ始めるのがわかるかもしれません。結構が良くなるとお湯から上がっても身体がいつまでもホカホカと温かく感じられます。

ところで浴衣を着ているせいもあるのでしょうが、宿の中では素足で過ごす人が多いのです。浴衣にくつ下をはくのは野暮と感じる人もいるにちがいありません。確かに浴衣に素足の風情はピタリときますが、じつはここに落とし穴があるのです。

とくに男性の場合は浴衣の下から脚の脛まで出してしまっている人もたくさんいます。これでは、せっかく温泉で温まった身体もじきに冷えてしまいます。神経痛のある人にはかえって逆効果となってしまうわけです。

こんな例があります。

私の治療院の近くに温泉病院があります。

温泉療法を中心にした慢性病の治療をおこなう病院です。ところが、あるとき、ひどい坐骨神経痛で入院中の患者さんが、病院を抜け出して私の治療院へやってきました。入院前よりも、症状が悪化したというのです。六〇代後半の男性です。

でも、その患者さんの話をきいて、私には悪化した理由がすぐに納得できました。

ちょうど夏だったこともあり、温泉病院の中は一日中冷房がきいているというのです。これでは温泉でいくら身体を温めても、病室にもどってくるなり冷えてしまいます。しかも全館冷房というわけですから、逃げ場がありません。痛みがさらにひどくなり、湿布をしても、痛み止めの座薬を入れてもらっても、注射をしても少しも効き目がないというのです。しかし、私に言わせれば、当然の話なのです。

神経痛は、これまでにもお話してきたように、決して身体を冷やしてはいけません。私は、その理由をわかりやすく説明し、できれば退院したほうがいいのではとアドバイスしました。

「どおりで温泉に入っている間はまるで治ったみたいにいラクになるのに、出てくると、また痛くて痛くてしようがないんや。わかった、もうやめや」

両足の痛みとしびれは強く、股関節の痛みもひどくてほとんど足が上がらない状態です。足をひきずるようにしなければ歩けません。

さっそく腰から足にかけて坐骨神経を圧迫している筋肉の硬直をとる治療をして、股関節の周囲の筋肉も調整して、可動性が出るようにします。これだけで、効果はすぐに出るはずです。

「今日のところは、これだけにしておきます。だいぶラクになったはずですから、ちょっと足踏みしてみてください」

こわごわの様子でベッドから下りようとしましたが、その表情が(オヤッ?)という感じです。おそらく、さっきまでのひどい足の痛みがないのでしょう。そして、おそるおそる足を交互に動かしながら、

「うん、治ってるわ。しびれが全然なくなってるわ。足、こんなに上がるわ」

半信半疑の様子ながら、本当にうれしそうです。

「でも、本当に治っているわけではないので、これからは絶対に冷やさないようにしてくださいね。できるだけ温めておいたほうがいいですよ」とアドバイスしました。

じきに退院すると私の治療院へ通ってくるようになりました。

治療の一方、神経痛を治し、再発させないためには日常生活でどんなことに注意したらよいか細かいアドバイスをしたところ、それをきちんと守ってくれたので、まもなく良くなりました。

温泉病院といえども、やはり理に叶わない治療をしていてはいけません。いくら全館冷暖房完備のホテルのような快適な環境を演出しても、本当に入院患者さんに必要な治療環境とはどういうものなのか考えていなかったといえるでしょう。

心臓の調子はいつも自分でチェックしておきたい

働き盛りの人の突然死が急増し、その死因は心不全が最も多いといわれています。

「突然死」という言い方は、まるで心臓が”ある日突然に”悪くなり、止まってしまうかのような印象を与えますが、決してそうではありません。

以前から徐々にオーバーワークになっていて、限界に達したときに”もうこれ以上働けない”と動きをストップしてしまうのでしょう。おそらく本人には何らかの自覚症状があったに違いありません。身体の不調を感じていたはずです。

でも仕事の忙しさを理由に、気にとめないようにしていたのでしょうか。それとも本当に医者のところへ行く時間もないほど仕事に忙殺されていたのでしょうか。いずれにしても、後悔先に立たずです。

あるとき、左肩がひどく凝ってツライという患者さんが来ました。五〇歳の男性です。確かに頸椎の周囲の筋肉に硬いコリがあります。
「だいぶ凝っていますね。お仕事、忙しいんですか?」

と聞きながらマッサージしていくうちに、だいぶラクになったと首を左右に曲げながらこう言います。

「先生、じつは二、三日前から左手の親指も痛いんですよ」

どこかで打ったり、ひねったりした覚えもありません。腫れもまったく出ていません。そこで、肩から腕、背中へと指をはわしながら、いつものように五臓六腑を順次イメージしながら患者さんの身体に悪いところがないか質問していくと、「心臓」のところで、私の手にググッというひっかかりが感じられました。私も「心臓」と出ると一瞬、緊張します。心臓が悪いといわれれば、誰でも不安になるはずです。病院で検査を受けためには仕事も休まなければならないはずです。

そこで、Oリンクテストをしてみることにしました。

「こうやって右手の指で輪をつくってみてください」

そして、患者さんの左手で身体のあちらこちらを指してもらいながら、その輪に私の指をかけていくと、やはり心臓のところで輪がパカパカと開いてしまいます。

「先生、なんですか、これ?」

患者さんも自分の指が、自分の意思とは関係ない動きをするのを不思議そうにながめています。

「これはOリングテストといって、左手で身体の悪いところを指すと、輪を作った指に力が入らなくなってしまうんですよ。もう一度、やっていただきますから、よく見ていてくださいね」

そう説明し、胃や肝臓の部分を左手で指してもらいながら私の指で輪を開こうとしますが、輪はしっかりと閉じたままです。そして再び、心臓の上に左手を持ってきてもらうとやはり輪は簡単に開いてしまうのです。

「ほら、心臓のところへ左手を持ってくると、指から力が抜けてしまいませんか? これは心臓が悪い可能性があるということを示しているんですよ。これまで定期健診などで心臓が悪いと言われたことはありませんか?」

言葉を選びながら聞いてみると、なんとこういう返事でした。

「あるんです。じつは一年ほど前に、夜眠っているときに呼吸をしていないことが時々あると家内が心配しましてね、病院で検査を受けたことがあるんです。いろいろ調べててもらったんですが、別に異常はない。心配することはないといわれたので、病院へ行くのもそれっきりにしているんです。でも、先生がそう言うのなら、もう一回、病院で診てもらいます」

そう言って帰っていきました。

詳しい検査の結果、確かに心臓に異常があることがわかり、さっそく治療に入ったそうです。それを聞いて、私もホッとしました。私の手が役に立ったといっていいでしょう。以前の私だったら、患者さんが「指が痛い」と言えば、

「気がつかないうちに突き指したんじゃないですか。結構あるんですよ。そういうことが」

なんて、湿布を貼っていたりしたかもしれません。

でも今では、どんな小さな痛みの訴えに対しても、その原因がはっきりしない場合には患者さんの身体に問いかけ、反応をたどり、意外なところに痛みの原因があることを発見できるようになったのです。

とく心臓が悪いと反応が出たときは慎重に患者さんの身体の反応を捉えるようにしています。心臓ほどハードワークを強いられている臓器もないからです。

さて、ここで、心臓の調子を自分でチェックできる簡単な方法を紹介しましょう。

手の甲を見てください。血管が浮き出ていますか? それでは手を顔の前へと上げてみてください。今まで浮き出ていた血管が引っ込みましたか?

引っ込めば、心不全の心配はありません。

もし、引っ込まずに浮き出たままでしたら、心臓の調子が悪い可能性があります。一度、心臓の専門医に診てもらうことをお勧めします。

血行の良さは健康のバロメーター

季節の変わり目は、なんとなく身体の調子が悪いという人が多くなります。

足がだるい、腰が重い、肩が凝る、首すじが張る――こんな症状は、昼間は温度が上がるのに、朝晩は冷えるという時期にとくに目立ちます。衣類や寝具は、どうしても昼間の気温を基準にして考えてしまうため、夜間の冷え込みで筋肉が縮み、血行が悪くなるのが原因です。

そのため、身体の末端部に充分な血液がゆきわたらなくなるため、だるくなったり、しびれや痛みを感じたりするのです。

こんなときは、次の”三首”をよく動かして、血行を良くするようにしてください。

1.首――頭が重い、めまいがするというのは、脳への血液の流れが悪くなっているのが一因です。めまいがするときは、身体を横にして休みましょう。

そして、首をグルグル回して、首の筋肉を柔らかくして、頭への血液が良くなるようにしてください。

2.手首――手先がしびれる、関節がゴワゴワするという感じがあるときは、手首はグルグル回したり、手の甲や手の平、指の一本一本をマッサージして血のめぐりを良くしてください。ギュッと握って、パッと開くという運動を何度も繰り返すのも効果的です。

3.足首――夜、布団に入って足がだるいと感じるときは、足首の下に座布団などを入れて、ちょうど心臓の位置と同じぐらいの高さにするとラクに感じるはずです。また布団に入る直前に入浴して身体全体を充分に温め、足首をグルグル回して足先への血流を良くしておくと、熟睡できることでしょう。

血行が悪いと、身体の細胞に新鮮な酸素が供給されず、逆に細胞でつくられた老廃物が回収されないため、いろいろな弊害が出てきます。血行を常に良い状態に保っておくことは健康維持のためにとても大切なことなのです。

ところで、末端部の血行が悪いのは、元をたどれば心臓の動きが弱っていることが原因です。血流のポンプの役割をしている心臓の働きが鈍っているということは、他の臓器の血行も低下しているということになります。その結果、さまざまな内蔵のトラブルも生じてくることになるのです。

心臓を良い状態にしておくこと、これこそ健康の基本といえましょう。

前項のように、ときどき手の甲を顔の前にかざし、血管の様子をみて、心臓の自己チェックをしてください。

「楽しい」ことが健康の条件

患者さんの中には、

「健康のためにバドミントンをしているんですけれど、いいでしょうか? バドミンドンは片方の腕しか使わないから、どうかと思って……」

というような質問をする方がいます。確かにバドミンドンはラケットを持つ腕に負担がかかりますし、球を打つためにダッシュすることもあり、腰や膝にトラブルをもっている場合には適さないということもできます。でも、誰もが選手のように猛烈なダッシュをするわけではありません。そこで、私は、

「やっていて楽しいですか?」

と聞くことにしています。

「楽しくできるのなら、やってもいいですよ。ただし、無理は禁物ですよ。ほどほどに楽しんでくださいね」

また、

「健康のために散歩をしたほうがいいでしょうか?」

と聞く患者さんもたくさんいます。

「何分くらいがいいでしょうか?」

「みなさん一人一人違いますよ。楽しく歩ける時間が、あなたに合った散歩時間ですね」

一時間くらい歩かないと気がすまないという人もいれば、十五分も歩けば充分という人もいます。まわりの自然の変化をながめながら、ゆっくりと歩くのが好きという人もいれば、万歩計をつけて、ひたすら遠くまで歩くのが好きという人もいます。

いずれにしても自分が楽しくできることが大切なのです。どんなに健康のために良いといっても、イヤイヤやっていては長続きしませんし、身体によいこともありません。

なぜなら、楽しくなければ、心も身体も「プラス」にならないからです。心が「プラス」の状態になれば、どんなことでも自分にとって効果のあることになりますが、「マイナス」の状態やっていては疲れるばかりです。健康にいいはずのことが、逆にストレスの原因にさえなってしまうわけです。

楽しく歩いたり、楽しく身体を動かすことによって気持ちが明るくなること、それが健康のために何より大切なのです。

「ジョギングは足や腰に負担がかかるから健康に良くないと本に書いてあったんですけれど、やめたほうがいいでしょうか?」

という人にも、こう答えます。

「あなたが走ることが好きで、走ったあと気持ちがいいのなら、あなたにはジョギングが合っているということですから、楽しく走れる範囲で走っていいのですよ。きっと健康になれますよ」

「将棋はじっと座ってするので健康に良くないんじゃないでしょうか?」

という患者さんにはこう答えました。

「確かにじっと腕組みをして、前かがみになったままでは良くないですね。できるだけ背筋をピンと伸ばして、腕も伸ばして、パシッと打つようにしてはどうでしょうか。姿勢を正せば、きっと腕も上がりますよ」

「無理」をしない。でも「大事」にしすぎない

ふだんしないような力仕事をしたり、スポーツで筋肉を過度に使うと、翌日から翌々日になって痛みが出てくることがあります。

筋肉が過度に伸ばされたり、縮められたりしたために、その後、硬直を起こしているのです。そして筋肉内の血管が圧迫されて血液の流れが悪くなり、筋肉内に張りめぐらされた末梢神経が圧迫されて痛みが出てくるのです。

筋肉が痛いと、つい動かしたくなくなります。自然に身体の動きもスローになり、できるだけ痛む筋肉を使わないような身体の動きになってしまうものです。

もちろん安静にしていても、やがて筋肉疲労はとれ、痛みもなくなっていきますが、より早く筋肉疲労による身体の痛みをとりたいと思ったら、あまり大事にしすぎてはいけません。過度に動かしたほうが早く本来の状態にもどることがわかっているのです。

多少の痛みをがまんしながら、ゆっくりと筋肉を伸ばすストレッチング体操をしましょう。はずみをつけずに、ゆっくりと筋肉が伸びるのを実感しながらするのがコツです。

すると、筋肉を構成している一本一本の筋線維が伸びて、その間にある血管や神経への圧迫が減少していきます。血液の流れがスムーズになると、動脈から新鮮な血液が流れてきて、筋肉細胞の一つ一つに新しい酸素が送りこまれます。そして、細胞の活動で生じた細胞の新陳代謝が活発に進み、筋肉の疲労が回復されていくのです。

神経への圧迫も少なくなれば、痛みも解消されていきます。痛みがなくなれば、筋肉を動かすのもラクになるので、ますます本来の動きができるようになることでしょう。

こうして筋肉の柔軟性がもどってくるのです。

ただし、痛いときに無理は禁物です。動かしたほうが早く回復するとばかりに、痛みをがまんしながら、強い体操をしたりしてはいけません。筋肉はますます緊張してしまいます。

「痛いけれども、気持ちがよい」という感覚で筋肉をゆっくりと伸ばすようにしてください。このとき息を止めないようにして、動きにあわせて呼吸するようにします。体内に酸素が充分に取り込まれ、血液に溶けて身体の細胞のすみずみにまで運ばれ、筋肉を活性化してくれることでしょう。

ムチ打ち症にはコルセットはしないほうがよい

多くの人が自動車を自分の足がわりに使うようになって、追突事故によるムチ打ち症の患者さんも急速に増えてきました。

ムチ打ち症とは、追突などの際に、六~九キログラムもある頭の重さによって首がムチのようにしなり、頸椎や筋肉、靭帯などに損傷が起きた状態です。知覚神経が圧迫されて激しい痛みが出たり、運動神経が痛められて首が動かなくなったりします。

首や肩の痛みだけでなく、頭痛、めまい、腕のしびれのほか、ひどい場合には吐き気さえ感じることもあります。

しかも事故後すぐに症状が出なくても、一週間ほどたってから出てくる場合もあるので追突事故に遭ったときは充分に注意して様子を見なければなりません。

ところが、病院でレントゲン検査やCT(コンピューター断層撮影法)やMRI(核磁気共鳴映像法)などに精密検査を受けても、痛みやしびれの原因となる部位が見つからない場合が往々にしてあります。つまり、レントゲンやCTで発見できないほど微妙な損傷でも、激しい痛みやめまいが起こるということです。

首にはいろいろな筋肉がついています。頭蓋骨を支えている背骨の一番上の部分である頸椎のほかには、食堂と気管が通っているくらいであとは全部筋肉です。

耳の下から鎖骨にかけて伸びている胸鎖乳突筋、あごと鎖骨をつないでいる広頸筋、背中側には板状筋、僧帽筋、肩甲骨筋、さらに前・中・高斜角筋、胸骨舌骨筋などが何層にも重なって走っているのです。首の動きに応じて皮膚の上からでも動きがわかるような太い筋肉もあれば、深部にあるごく細い筋肉です。

これらの筋肉のいずれかが、外的ショックで損傷を起こすと、緊張して硬く縮まってしまい痛みが出てくるのです。

いったんムチ打ち症が起こると、痛い部分をかばおうとして不自然な姿勢をとるために首から肩、胸、背中の筋肉が本来のバランスを失ってしまいます。そのため正常な筋肉や靭帯にまで無理な力がかかり、だんだんと広い範囲に筋肉の疲労が広がっていくわけです。首から肩の痛みが腕、背中、腰、足にまで及んでしまうこともあります。当然ながら自律神経にまで悪影響が出てきて、内臓の調子も狂ってきます。

そのため、ムチ打ち症の治療で重要なのは、ショックとその連鎖反応で過緊張している筋肉をできるだけ弛緩させることです。硬くなっている筋肉繊維に指で軽い刺激を与え、筋肉の強過ぎる緊張をゆるめていきます。もちろん強い刺激はいけません。あくまでもソフトに筋肉に触れてあげると、筋肉がしだいにゆるんできます。

筋肉がゆるめば、神経への圧迫がなくなり、血行もよくなり、さらに筋肉はやわらかくなっていきます。

ムチ打ち症になると、整形外科では首にコルセットをします。傷んだ頸椎や筋肉を動かさないようにするためです。動かさないで回復を持とうというわけです。

ところが、ここまで書いてきたことからも理解してもらえると思いますが、硬くなっている筋肉は過度に動かし、早く緊張をとったほうが良いのです。じっと動かなさいでいると余計悪化していくものなのです。

コルセットをしていると筋肉を動かすことができず、ますます硬くなっていきます。

先日も、首にコルセットをはめた女性がやってきました。身体中に不快な症状が出ていて仕事もできない状態です。私は即座にコルセットをはずしたほうがいいとアドバイスしました。

「でも先生、下を向いただけで頭にピーンと電気が走るみたいに痛くて、あげそうになっちゃうんです」

「いや、ぜひ、はずしてください。きちんと治療をしてあげますから」と納得してもらい、その場でコルセットをはずしてしまいました。

やはり首の筋肉がどれも硬く縮んでしまっています。これでは頭と身体を結んでいるさまざまな神経が圧迫されているに違いありません。血液循環も相当悪くなり、ひどい頭痛を引き起こしているのでしょう。

それから三、四回治療に通ってもらいましたが、じきにすっかり完治しました。

筋肉のバランスが元通りになったからです。

早い時期に専門医の治療を受ける

腰痛、肩こり、膝や肘の痛みなどいろいろな身体の不調は、やはり早い時期に専門医に診てもらうことを勧めます。「腰痛」「肩こり」と一口に言っても、痛みやしびれなどが出ている原因はじつにさまざまだからです。

なんといっても筋肉疲労が原因になっていることが一番多いのですが、これまでにも書いてきたように、筋肉の疲労が慢性化してくると、背骨や身体各部の関節などのズレや変形を引き起こします。その結果、神経痛になったり、内臓の病気になったりすることもあるのです。

痛みのある部分を冷やしたほうがいいのか、温めたほうがいいのか、そのこと一つとっても原因によって違ってきます。そして、それぞれの症状に合わない方法をとった場合には治りもずっと遅くなってしまいます。そればかりか悪化して、痛みが広がったり、筋肉や靭帯、腱、骨の損傷を拡大してしまう危険さえあるのです。

治療を受けたときは、日常生活上のアドバイスも受けるようにしましょう。いくら治療を受けても、患部に負担のかかる生活をしていては治りがおそくなります。「治療を受けたから、もう大丈夫」と思ってはいけません。

たとえば、こんな例がありました。膝痛で治療に来た高齢のおばあさん。季節の変わり目は気温の変化も激しいため、とくに高齢になると身体のあちらこちらの筋肉が緊張しがちです。このおばあさんも、歩いたり、階段を登ったりするときにいちばん使う大腿四頭筋が緊張しているようです。

大腿四頭筋の下端は膝関節についているため、その部分に痛みが出ているのです。さほどひどい症状ではないので、一週間ほど安静にしていれば痛みはとれるにちがいありません。

「痛いときは歩かないようにしてくださいね。家の中で、足を温かくして安静にしていれば、じきに良くなりますよ」

「私、そんなに歩いてへんで。この膝の痛みは年のせいだから、あきらめてるよ」

近所でも元気なおばあさんで知られていて、こまめに出歩いている様子は知っています。

「そんなことないですよ。おばあちゃん、これ、歩かないでいたら絶対に治るから」

と言っても、

「年だから、治らへん。死ぬまで膝の痛いのにはお世話になるんや」

変形性膝関節症で長い間、膝の痛みで苦しんでいる人をたくさん見ているため、自分もそうだと信じ込んでいるのでしょう。いくら「歩かなければ治るから」といっても信じようとしません。

ところが、そのうち、おばあさんは白内障の手術で一週間入院したのです。

退院すると、さっそく私の治療院へやってきました。

「今日は腰やってもらうわ。病院のベッドに寝ていたら腰が痛くて、かなわんわ」

「膝の具合はどうですか?」

「ああ、膝ね。膝は治ってん。入院してて歩かなかったら、ほんまに治ったわ。正座しても痛ないわ」

こういう例は結構あります。自己判断せずに、専門医のアドバイスを守れば、意外に早く治るケースもたくさんあるのです。

患者さんの中には、治すのは医師の仕事だから自分はどんなことをしていてもいいと考えているような方がいますが、これでは治癒が遅れてしまいます。医師や薬はあくまでも患者さん自身の治癒力を高める手助けをしているのです。

ぜひ、そのことを自覚して、自分自身でもできるかぎりのケアをしてほしいものです。第7章で、私がふだん治療院を訪れた患者さんたちにしているアドバイスをまとめてみました。参考にしていただければ、きっと治りが早くなるにちがいありません。

そしてこれらのアドバイスを守ることはもちろんですが、患者さん自身が、自分で自分を癒すことに目覚めることは、なお大切な事です。

先生が治す、機械や電気治療器が身体をよくするのではありません。

わが精神を宇宙の大生命と一体として、静かに考えてみることです。

私の回りに起こるさまざまな出来事は、この一つの痛みにより、突然ストップしたのです。対症療法には限界があります。

目に見えない大きな慈悲としてとらえていかねばならないと思います。じっと目を閉じて考えてみてください。

一つの痛みを、今までは治そう!! 治そう!! としてきました。

しかし、そうではありません。生き方を変える、人生を変えるチャンスなのです。今までの生き方では、なかなかとれないから、痛みを通して教えていただいているのです。

天から与えられた宝珠が花開く時なのです。

しかし、私たちはこの宝珠に気がつきません。目の前の生活に振り回されて、大切なものに気がつかないのです。心の片隅にはいつも感じているのですが……。

誰一人として与えられない人はいないのです。これこそが生きる力であり、天地が一体となるのです。ですから、この宝珠に気づく機会は、皆一様にそれぞれが天から与えられます。その人にふさわしい形や機会で与えられ、一見不合理にみえるものが多いのです。人により違います。

その答は与えられるものではありません。結局、自分自身がすべてをぶつけて掴むものです。全身全霊をぶつけて掴むものです。

目次へ戻る

第6章 「スポーツで不健康」にならないために

求められる的確な指導者の判断

若年層のスポーツの専門化が進んでいます。サッカーや水泳、体操などオリンピック選手を目指して、小学生のころからハードなトレーニングを重ねている少年少女もたくさんいます。

そこで大きな問題となってくるのが指導者の役割です。

指導方法が的確でないために、せっかく素質がありながら怪我や故障を起こし、能力を充分に発揮できずに消えていく選手もたくさんいます。このことは治療者として残念でなりません。

筋肉の疲労をしっかりと回復させないで過度な練習を重ねたり、同じ練習ばかり続けたために特定の筋肉だけが疲労し、その結果として、筋肉や靭帯が部分的に、あるいは完全に断裂したり、骨の異常が起きたりします。重症の場合には、それ以上、そのスポーツを続けることが不可能になる場合もあるのです。

指導者の役割とは、単に技術や体力を高めるために、やみくもに練習させるだけではありません。いかに的確に休憩をとり、筋肉の疲労を解消しながら、合理的な指導をしていくかということが大切なのです。

私の治療院にも多くのスポーツ少年少女が治療にやってきますが、もう少し早く治療にくればよかったのにと思う例が少なくありません。指導者がついているなら、治療が必要な時期がわかるはずなのにと思うこともたびたびです。

スポーツの種類によって練習方法や鍛えるべき筋肉は違いますが、筋肉の疲労や痛みが出ている場合、どの段階で専門医の治療を受けたほうがいいかということを指導者がきちんと見極められるかどうか。それが非常に重要です。

ここでは各スポーツ共通の「専門医の治療が必要な段階」の目安を教えましょう。

一言でいえば、

「正しいフォームで歩けない、走れない、泳げない」

などという状態です。

通常の筋肉疲労による痛みであるならば、練習で鍛え上げた正しいフォームがとれなくなることはありません。

正しいフォームがとれないということは「異常」なのです。筋肉や骨が適応力の限界を超えているということなのです。ここで無理をすると、取り返しのつかないことになります。正しいフォームがとれないとは、身体のバランスがくずれていることでもあるので、さらに別の故障や怪我を起こす引き金になってしまいます。

このようなときは、指導者は迷わず練習を中止させ、少しでも早く適切な治療を受けさせることが必要です。

そして、指導者は練習メニューの再検討が必要です。正しいフォームで歩けなくなるような練習は、そのメニューのどこかに欠陥があるはずです。とくに連日、同じ練習メニューで行うことは、特定の筋肉の使い過ぎによる故障をおこす最大の原因となります。

それぞれの筋肉がきちんと疲労を回復しながら強化されていくように、トレーニングに強弱をつけたり、練習内容に一定のサイクルをつくることが必要です。

筋肉の疲労回復を早める方法

スポーツによる筋肉疲労を回復するためのポイントをまとめておきましょう。

1.練習の後のストレッチングは、その日使った筋肉にストレッチングを行う。

このことが意外と見落とされています。その日の練習内容に関係なく、いつも決まったストレッチングだけをしている場合があるようですが、これでは効果は半減です。総合的なストレッチングに加えて、その日とくに使った筋肉を重点的にストレッチングして、疲労によって硬く緊張した筋肉を伸ばして柔軟にし、筋肉内の血液の循環をよくしてお必要があります。こうすると疲労の回復度が早まります。

2.急激に身体を冷やさない。

筋肉はトレーニングによって発熱しています。身体が熱いのは当然です。筋肉は徐々に正常な状態にもどろうとしているのに、急に冷やすと、逆に筋肉の緊張が進んでしまいます。血液の循環も悪くなってしまいます。したがって疲労がとれにくくなってしまうのです。

3.入浴は就寝前に、ぬるめの湯で充分に温まる。

筋肉の疲れは睡眠中に癒されます。入浴によって身体が温まったまま眠りに入れば、効率よく筋肉の疲労回復が進みます。ぬるめのお湯がいいのは、副交感神経を刺激するため鎮静作用が働き、筋肉が弛緩し、血行が促進するからです。一方、高温の湯は交感神経を刺激し、新陳代謝を促進するため、かえって目が冴えてしまうこともあります。睡眠を充実したいと思うのなら寝る直前に四〇~四二度くらいのぬるめのお湯に一〇分間以上入るといいでしょう。

4.睡眠は充分にとる。

なぜ睡眠中に筋肉の疲労が回復するかというと、睡眠中に脳下垂体から分泌されるホルモンが大きな働きをしています。これは成長ホルモンといわれるもので、「寝る子は育つ」のことわざの由来となっています。成長ホルモンは、成長を促進させる働きと、身体の中にたまった老廃物を排出させる働きをもっています。そのため睡眠を充分にとれば、筋肉内にたまった乳酸などの疲労物質も取り除かれ、筋肉の回復が早まるというわけです。

5.バランスのよい栄養をとる。

筋肉の細胞はたんぱく質でできています。筋肉を動かすエネルギー源は糖質と脂肪です。そして、細胞をつくったり、エネルギー代謝をスムーズにおこなうのに必要なのがビタミンやミネラルなどの微量栄養素です。いずれの栄養素もそれぞれのはたらきをしています。そこで毎日の食事を大切にし、バランスのよい栄養摂取を心がけることが筋力アップや筋肉疲労の回復に不可欠です。

6.指導者や選手をほめる。

心と身体はひとつです。指導者は、選手が練習や試合で充分に頑張ったことを評価してあげなくてはいけません。正しく評価され、言葉でほめてもらえてこそ、激しい筋肉疲労も心地良い疲労感へと変わってきます。これのできない指導者ははっきりいって失格です。

筋力強化は「超回復」を利用する

筋肉はトレーニングを重ねるほどに強化されていきます。ただし筋肉の疲労と回復のメカニズムを知らないと、効率のよい筋肉強化は望めません。

トレーニングをしたあとの筋肉疲労をとるためには過度な休息が必要です。疲労した筋肉を休めないでさらにハードなトレーニングを続けていくと過疲労となり、怪我や故障の原因になることは前項で述べました。

過度な休息をとった筋肉はやがて疲労を回復し、前回のトレーニングに入る時点の筋力よりも高いレベルまで回復します。わずかなレベル差ですが、これこそトレーニングによって筋力や体力がアップしたことを示し、「超回復」と呼ばれます。

この超回復をした状態で次のトレーニングを行うと、再び疲労しますが、筋力、体力ともに以前の疲労レベルまでは下がりません。そして再び過度な休息をとると、再び超回復が起こります。

このように超回復状態をうまく利用していくと、筋力や体力は着実にアップしていきます。筋力強化に成功したわけです。

ところが超回復状態を通り超しても休息していると、もとの筋力、体力レベルまでもどってしまい、再びトレーニングのしかたを続けていると、いつまでたっても体力や筋力はアップしないことになります。

つまり、あまり休息をとり過ぎてもいけないわけです。

逆に、筋力や体力が回復しないうちに次ノトレーニングを開始してしまうと、スタート時点のレベルが低いわけですから、向上するどころか、だんだん下降していくことになります。慢性疲労による体力低下、筋力低下というわけです。

超回復状態がいつ、どんな状態でおとずれるかは一概にはいえませんが、おおよその目安としては筋肉の痛みや疲労感はまだ多少残っているけれども、身体を動かすのはかなりラクになってきたときといえましょうか。

指導者がついている場合は、その状態をしっかりと見極めてトレーニングのサイクルを組み、筋力強化に成功してほしいものです。

日常の姿勢バランスの矯正から始めよう

スポーツの基本は「バランス」です。

とくに柔道、空手、相撲などの格闘技は、相手のバランスを崩すことで自分の有利な体勢に持ち込み、技を決め、勝敗を決めていくといっていいでしょう。

では格闘技以外のスポーツはどうでしょうか。バレーボール、バスケットボール、テニス、水泳、マラソンなどのスポーツのバランスとは「フォーム」に表れてきます。

いずれのスポーツにも必ず最適な基本フォームというものがあり、その基本フォームをマスターできないと、いくら体力があってもレベルの向上には限度があるようです。

それらのスポーツの基本フォームを分析していくと、まさに瞬発力や持久力を発揮するための合理性に裏づけられています。その基本フォームをもとに、一人ひとりの体形や筋力をいかした「自分にとって最適なフォーム」を形成していくわけです。

スポーツをする人は、ふだんの姿勢や歩き方のバランスを大切にしてほしいと思います。フォームのバランスの最もベースになるものは、日常生活の中での身体のバランスだからです。ふだん履いている靴の底を見てください。均等に減っていますか? かかとの外側あるいは内側だけが減っているということはありませんか? または、どちらか片方の靴の底の減り方が大きいということはないですか?

もし、均等に減っていなかったならば、歩くときの姿勢のバランスが崩れていると考えてまちがいないでしょう。もっといえば骨盤のバランスに問題があるはずです。

このような人は、何気なく立っているとき、自分の姿勢をチェックしてみてください。無意識のうちに、いつも、どちらか片方の足に体重をかけて立っていませんか? その姿勢がラクだという人は、これからは意識的に両足に均等に体重をかけ、重心を身体の中心線上の低い位置において立つように心がけてみてください。

ふだんの姿勢においても、身体のバランスを正常に保つように訓練することは、とても大切なことなのです。

無意識の姿勢のクセこそ”クセもの”です。意識して治すようにすれば、きっと、徐々に正常なバランスが身につくにちがいありません。

「スポーツのレベル向上は日常の姿勢のバランスの矯正から」と考えましょう。

怪我や故障をプラスに変える

中学三年生の野球少年、中学校時代最後の試合を前にして利き手を突き指してしまいました。レギュラー選手として一生懸命練習してきただけに、

「試合に出られますか?」

彼の関心はただその一点です。でも、右手ひとさし指の靭帯がかなりひどく損傷しています。

「アカン」

私ははっきり答えました。中途半端な返事はかえって彼にとってマイナスです。無理をして痛めた指を使ったら、これからも野球を続けるはずの彼の将来に悪い影響を遺すにちがいありません。

「練習もアカンよ。しばらく、この指、使わないようにしないと絶対に治らないよ」

悔しい気持ちを自分でもどうしようもないのでしょう。治療している間、ふてくされたように無言で下を向いています。

「せっかくの最後の試合だし、球拾いでもしたらどうや」

そう話しかけても、とうとう一言も返事をせずに帰っていきました。それでも、翌日も治療にやってきました。相変わらず、口はきこうとしません。下手ななぐさめの言葉をかけても彼の心を傷つけるだけと思い、こちらからも特別に声はかけませんでした。

おそらく自分で自分の心と戦っているにちがいありません。

ところが、数日後、彼の方から話しかけてきたのです。

「先生、球拾いしてたらな、後輩が喜んでくれてな。先輩が球拾いするんなら、俺たちも一生懸命やらなあかんといってチームが一つにまとまってきたわ。これなら、明日の試合いけるかもしれへんな」

と言うのです。どうやら練習に参加して、球拾いをしているようです。そして、

「この指、曲がらんけど、試合、出てもいいやろ?」

靭帯を痛めた指は、ようやく腫れはおさまったものの、まだ曲げることはできない状態です。

「でも、今度、突き指したら知らんで」

「わかった。また痛くなったら来るわ」

と、初めて明るい笑顔を見せて帰っていきました。

後日、その少年の母親から聞いたところ、指にテープをグルグル巻いて固定し、試合に出たようです。代打で出たのかどうか、詳しいことはわかりませんが、この少年が怪我を通じてひとまわり大きく成長したことは確かです。

レギュラーから外れたことによって、チームの団結の大切さを客観的に診られたということは良い経験になったはずです。そして、自分が毎日、球拾いをしたことが、チームの団結に良い作用を及ぼしたという確信が、彼の心を「プラス」に変えたのです。

事実、この怪我は彼にとってマイナスのアクシデントでしたが、球拾いをすることによってチームの団結が高まり、メンバー全員の試合への闘志が高まっていった――それを実感したとき、彼の心は「プラス」になったのです。

彼の心がプラスになれば、中学校生活最後の試合がどんな結果に終わろうと、彼自身にはプラスの結果が残ります。おそらく、怪我に負けなかった彼の明るさは、チームメンバーにも作用して、きっと良い思い出が残せたにちがいありません。

チーム全体にプラスの影響を及ぼしたのです。

私なこの少年の成長に「諸法実相」の「十如是」の教えを見た思いがしました。

人の為に尽くすという行為そのものが、無我なのです。

それは、人生をプラスに変える、一番手っ取り早い方法でもあります。その精神が行為を生み、その人自身の心に感動を生むのです。

ですから、人の為に尽くすとは、実は自分の為なのです。そのことが分かった時、私たちは思わずその出来事に合掌せずにおれません。

目次へ戻る

第7章 家庭でできる「一日でも早く治す」ためのちょっとしたケア

腰痛

①原因

腰痛にはいろいろな原因があります。

長時間同じ体勢でいたり、過度な運動をしたために起こる腰の筋肉疲労による痛みから、背骨の一部である腰椎のズレやゆがみによるギックリ腰や坐骨神経痛、さらには脊髄分離や脊髄すべり病などひどい痛みを生じる症状まで、原因によって適切な治療法は変わってきます。

しかしながら、いずれの腰痛にも共通の注意事項はあります。日常生活の中で、これだけは守ってほしい注意事項をまとめておきましょう。

②生活上の注意事項

・打撲、ギックリ腰など急性の腰痛は痛む部分を冷温布で冷やしてください。

それ以外の腰痛はカイロ等で温めると痛みがラクになります。

・荷物はできるだけ持たないようにする――もし、持たなければならないときは次のようにしてください。背中をまっすぐにしたまま、ひざを曲げて腰を低くし、ゆっくりと持ち上げる。決して腰から曲げて持ち上げないようにしましょう。

大きな荷物はできるだけ身体にぴったりつけるようにして持っていると、腰への負担が軽くなります。

・ソファに腰をかけない――柔らかいソファは腰が沈んで、身体の重みがかかってしまいます。イスに座るときは、固めのイスに浅く、背中を伸ばして座りましょう。

・長時間の運転は避ける――運転するときは、できるだけ座席を前の方に出し、背もたれを立て、腰と背中がしっかり固定されるようにしてください。

こまめに休憩をとり、腰を充分に伸ばしてください。

・掃除はできるだけ控える――掃除機をかけるときは背中をまっすぐに伸ばします。風呂場掃除、床拭きなど腰を曲げる作業はできるだけ避けましょう。

・長時間同じ姿勢をとらない――とくに痛みの出る姿勢はとらないことが大切です。

・腰痛体操なども、痛みのあるうちはしないでください。

③入浴

・寝る直前に入ること。

・浴槽の中で充分に温まり、上がったら身体が温かいうちに寝てください。

④睡眠

・敷布団の下にマットレスは敷かない。

・腰にものを当てて寝ない。

・横を向いて、エビのように身体を丸くして寝ると腰の痛みがラクです。

・上を向いて寝るときは、次のようにすると腰に負担がかかりません。

◎ひざを立てる
◎ふくらはぎの下に座布団などを入れ、足を高くして寝る。
 
⑤テープなどを貼った場合には、かゆくなければできるだけ長い時間貼っておいたほうが効果が出ます。

ただし、かゆみが出た場合はすぐにはがした方がいいでしょう。

⑥腰痛は、痛みがなくなったからといって完治していない場合も多いので、痛みがとれた後も、最低一〇日ぐらいは以上の注意事項を守ると再発を防ぐために効果的です。

肩こり

①原因

同じ姿勢を長時間していたための筋肉疲労、パソコンなどで目を酷使したための眼精疲労、運動不足による筋肉の柔軟性の低下、あるいは精神的ストレスからくる肩こりなど原因はじつにさまざまです。事故によるムチ打ち症状の後遺症もあるからでしょう。

肩こりがひどくなると、自律神経を圧迫されてバランスが崩れ、内臓の調子まで狂ってきます。一日も早く肩こりを解消するようにしましょう。

②生活上の注意事項

・同じ姿勢を長時間しないようにする。

・細かい作業を根をつめてしないようにする。

・痛いところを強く押したり、たたいたりしない――筋肉がさらに収縮してしまうため、軽くたたいたり、さすったりするほうがいいのです。痛いのを我慢して強く揉んだりするのは逆効果の場合もあります。

・気分転換をする――身体と気持ちをともにリラックスさせることが大切です。好きな音楽をきいたり、テレビを見たり、本を読んだりして気分転換をしてください。ただし、この気分転換は「楽しい」ということが条件です。

③運動療法

・ストレッチ体操をして肩の筋肉を伸ばしましょう。ストレッチ体操のコツは、はずみをつけずに、首筋や肩の筋肉が伸びるのを実感しながらゆっくりと行うことです。気持ちよく感じるところで一〇秒から二〇秒くらい動きを止め、筋肉を充分に伸ばしてください。筋肉が柔らかくなると血行もよくなります。

・水泳、ヨガ、軽いジョギングなど。歩くだけでも効果がありますが、その場合には必ず二〇分以上歩きましょう。

・スポーツも「楽しく」できることに限ります。気の合わない人間関係の中でするのならば、すぐにやめるべきでしょう。テニス、バドミントン、ソフトボール、野球などいろいろありますが、仲間と楽しい会話をしながらできるスポーツが最適です。

④入浴

・寝る直前に入りましょう。

・ぬるめのお湯に首筋までしっかりと入って温めます。ぬるめのお湯に一〇分間以上つかると、身体の芯から温まります。

⑤睡眠

睡眠は充分にとれればいいのですが、なかなかそうもいかない人も多いことでしょう。そこで、短時間でも熟睡できる方法を教えましょう。

・就寝する一五分前にお風呂から上がり、身体の筋肉を伸ばすストレッチ体操をする――心臓から遠いところから伸ばしていきます。たとえば足のすね、手首などから、徐々に身体の中心の筋肉を伸ばしていきます。だいたい五分間くらいでいいでしょう。

・自分に暗示をかける――布団の上で仰向けになり、両手、両足を伸ばしたまま全身の力を抜いて、「とてもいい気分だ」「身体から疲れがとれて、今夜もぐっすりと眠れそうだ」と自分自身に言い聞かせます。このことにより、内臓・筋肉の緊張がとれてきます。

・複式呼吸をする――そのままの姿勢で一〇回ほど、大きく複式呼吸をします。

・目覚め――目がさめたら、充分に眠れていなかったとしても「ああ、よく眠れた」「すっかり疲れがとれた」と口に出して言ってみましょう。不思議とそんな気分になってくるものです。早い人ならば、その日から、長くかかる人でも三週間くらいで効果が出てくるはずです。ぜひ続けてみてください。

五十肩(肩関節周囲炎)

①原因

五〇前後におこる肩の痛みのため「五十肩」と呼ばれますが、正確には「肩関節周囲炎」といいます。英語では「フローズン・ショルダー(凍りついた肩)」で、なるほど硬くこわばって、動かせない感じが出ています。

ふだんからあまり運動をしていない人は、加齢とともに肩から腕の筋肉の弾力性がなくなり、筋肉組織がもろくなっていきます。とくに肩の丸みの部分を形成する最も大きな筋肉である三角筋の筋力が弱まってきます。

さらに肩関節の周囲にある関節包や滑膜、腱などの組織にも炎症がおこり、痛みが出てくるのです。

②程度

・Ⅰ度――手は上に上がるが、後ろへ上げると少し痛みがある。

・Ⅱ度――手は上に完全に上げられない。後ろへはとくに上がりにくい。

夜間に痛みがある。

ズボンの後ろポケットの物の出し入れが不自由になる。

ブラジャーのホックをしたり、エプロンのヒモを結ぶのが不自由になる。

・Ⅲ度――手は水平より上に上がらない。後ろへはまったく上がらない。

肘の外側に痛みがある、手がしびれる。

夜間、痛みで目がさめる。

服を着たり、脱いだりするのが不自由になる。

・Ⅳ度――手はまったく動かない。

歩行中も痛みがある。

③生活上の注意事項

・絶対に冷湿布などで冷やさない。関節がさらに硬直してしまいます。

・痛みのある手で物を持たない。とくに重い荷物は決して持ってはいけません。

・肘を曲げてグルグル回さない。弱っている筋肉や筋膜、腱、靭帯などの肩関節周囲の組織を痛めてしまいます。

・入浴は寝る直前にして、充分に温める。

・就寝中はタオルを当てたり、サポーターをして肩を冷やさない工夫をする。

・痛みのある肩を下にして寝ない。圧迫すると炎症が悪化します。

④運動療法

・痛みがおさまってきたら、少しずつ動かすようにしてください。

・カイロなどで肩を充分に温め、筋肉がほぐれてきたら、肘を伸ばして少しずつ腕を上に上げる練習をしましょう。

・一回五分程度で、一日に三回~五回行いましょう。一度にたくさんするよりも、何度かに分けて少しずつ動かしたほうが早く治ります。

・運動後、肩にこわばりが出ますがまったく心配ありません。

膝痛

①原因

膝の痛みは、昔から日本人の女性に多く見られます。とくに太った女性の場合、中年を過ぎる頃から膝の痛みを訴える人が増えてきます。

なぜ日本人の女性に膝痛が多いのでしょうか。その理由は次のようなことが考えられます。

1.畳の生活で正座をすることが多い。

2.そのため、立ったり座ったりするたびに膝に大きな負担がかかる。

3.横座りの姿勢をすることも多く、腰の骨や筋肉のバランスが悪くなる。

4、腰の痛みのために歩く姿勢が悪くなり、さらに膝に負担がかかるようになる。

「おや?」と思われる方も多いかもしれませんね。整形外科などでは、

「老化現象だからしかたがない」

「膝関節の骨が摩耗して、骨と骨とがすれて痛む」

などと診断されることが多いようですが、私は少し見方が違います。

なぜなら。高齢になっても少しも膝の痛みを感じずに生活している人もたくさんいるからです。

また、的確な治療をすれば痛みもなくなり、正座したり、階段の上り下りにも不自由を感じなくなる人もいることを考えると、簡単に「老化現象」とか「骨が減っている」と診断してしまうのは疑問です。

②生活上の注意事項

・長時間の正座は避ける――まずは膝に負担をかけないことが第一です。できるだけ椅子の生活をするようにすると痛みの軽減に効果があります。

・冷やさない――保湿用サポーターなどを利用して、温めておきましょう。痛みが強い場所はカイロで温めてあげるのも良い方法です。

・外側が高くなったサンダルを履く――ふだんのサンダルは、足を乗せる部分が平らなものでなく、外側部分が中央よりも少し高くなっているものを選ぶといいでしょう。とくに長時間歩くと膝の内側が痛くなるという人は、このようなサンダルを履くと大変ラクに感じるはずです。

・ウォーキングシューズを履く――歩きやすさを大切にしてデザインされたウォーキングシューズもたくさん市販されています。歩くときのかかとや膝に対するショックをやわらげる工夫がされているのでお勧めします。

③運動療法

次の体操を毎日してみましょう。

1.床に腰を下ろし、両足を前にまっすぐに伸ばす。膝の内側が開かないように、きちんと両膝をつける。

2.そのまま両膝を曲げたり、伸ばしたりすうr。

3.ゆっくりと約三〇ずつ、朝と晩に二度おこなってください。

④専門医の治療が必要な場合

次の症状がある場合は専門医の治療が必要です。

そのうえで前記の注意事項を守り、運動療法をすると、治療効果は目に見えて上がるはずです。

1.腰痛を伴っている場合

2.腫れのある場合

3.痛くて正座ができない場合

4.長時間歩けない場合

テニス肘(上腕骨外側上顆炎)

①原因

肘の外側の筋肉が痛むケースが多く、正確には上腕骨外側上顆炎といいます。手関節や指を伸ばす筋肉(伸筋)のつけ根は肘の外側にあります。手首や指に繰り返し強い力がかかると、この伸筋が疲労し、やがて、その筋肉のつけ根に炎症や断裂を起こす場合があるのです。

とくにテニスでバックハンドを多用すると、この部分が炎症を起こしやすくなるため「バックハンドテニス肘」とも呼ばれます。

逆に肘の内側の痛みは、サーブやスマッシュの繰り返しによる筋肉疲労によって生じます。フォームが正しくない場合に無理な力がかかって起こることも多いようです。

テニスばかりでなく、卓球や野球などのスポーツ、重労働をする人、文字をたくさん書く仕事の人などでも起こります。

②予防

まずテニスのフォームのチェックをしてみましょう。手首の力でラケットを振ることを最小限にして、肘、肩、腰を最大限に利用した正しいフォームを身につけてください。ラケットは細めのグリップのほうが肘への負担が少なくなります。

また、エルボーベルトは打ち合うときだけに使うようにするといいでしょう。

③生活上の注意事項

・モノを握る動作をできるだけ控える――ペンなどを強く握って文字を書く、タオルや雑巾をしぼる、硬いピンのフタを開ける、雑草抜きをする、荷物をもつ等、肘や手首に力が入る動作はしないようにしてください。

・手の平を押すようにして使わない――拭き掃除、長時間の車の運転、あるいはパチンコなども肘の筋肉の負担になるため、控えるといいですね。

・よく温める――保温用サポーターやカイロを使って、痛む部分を充分に温めてください。決して冷湿布などで冷やしてはいけません。できるだけ冷房を避け、扇風機の風を当ててもいけません。

・入浴は、寝る直前にゆっくりと入る――テニス肘は筋肉疲労ですから、お湯の中で充分に温め、筋肉のこりをとるとともに血行をよくしてあげることが早い回復につながります。

・睡眠中もサポーターをする――どうしても布団から腕が出てしまいますから、サポーターをしておくと一晩中保温できるでしょう。
④運動療法

・お風呂でよく温めた後などに、肘の筋肉のストレッチングをしましょう。まず腕を前に伸ばし、手首をゆっくりと上に反らします。次に、肘を伸ばしたままで手首を下に曲げます。この肘のストレッチング体操を数回繰り返してください。

寝ちがえ

①原因

寝ちがえは、首の周囲の筋肉が緊張してしまったために起こります。寝ている間の姿勢や、ふだんから筋肉疲労を起こしていた筋肉の部位によって、寝ちがえによる痛みの出る場所もちがってきます。

首の周囲には胸鎖乳突筋、板状筋、僧帽筋、斜角筋、肩甲骨筋など、頭と首を曲げたり伸ばしたり、回したりするためのいろいろな筋肉が走行しています。

専門医は痛みの箇所や、動作の不自由度からどの筋肉を傷めているかすぐ判断がつき、その筋肉の緊張をとるように調整するため、短時間のうちにラクになるはずです。

「寝ちがえぐらい一日で治る」と痛みを我慢していると、筋肉の過緊張が患部の周辺の筋肉にまで広がっていき、肩から背中まで筋肉痛を起こすことがあります。できれば早めに治療を受けたほうがいいでしょう。

②生活上の注意事項

・痛みのある場所をよく温める――熱いタオルなどで痛む場所を温めてください。冷湿布で冷やしてはいけません。

・できるだけ動かす――痛いからといってじっとしていてはいけません。さらに筋肉が硬くなっていき、治りがおそくなってしまいます。多少痛みを感じても、ゆっくりと首を回したり、左右前後に曲げたりして動かしてください。

・同じ姿勢を長時間続けない――テレビを見る、下を向いて編み物や手芸をする、文字を書くなどの作業を長時間続けてしないようにしましょう。

・パソコンなどは控える――パソコン、ワープロ、ファミコンなど、首をじっとしたまま根をつめる作業はできるだけしないようにします。また、目を疲れさせないようにすることも大切です。

・痛みがある間は、できるだけ夜間も二回くらい起き上がって、首を回すようにしてください。筋肉の柔軟性を早くとりもどすためです。(ストレッチ体操は175P参照)

外反母趾

①原因

最近、若い人たちに、足の親指のつけ根の骨が曲がる外反母趾が大変増えています。足のサイズに合わない(小さい)靴を履いていることが原因といわれてきましたが、私は次のような点に大きな原因があると考えています。

1.遺伝性。両親のどちらかが外反母趾の場合、その子供外反母趾になる割合が高いといえます。

2.はっきりいって若いときから運動不足の人が外反母趾になりやすいようです。走ったり、フットワークをするとき足の親指の筋肉を使います。そのため靭帯や腱も鍛えられますが、最近の若い人は長距離を歩いたり、走ったりしないため、この部分の筋肉が弱く、骨が外側へ出てきてしまうと考えられます。

このように、決して靴だけの問題ではありません。いったん出てしまった外反母趾は元にもどすことはできません。痛みもしだいに強くなってきます。

でも私の治療では、それ以上でいないようにすることはできます。したがって痛みもひどくならずにすむはずです。

②生活上の注意事項

日頃の運動不足を解消するつもりで、おおいに身体を動かしましょう。楽しく気分転換し、足の筋肉を鍛えてください。

目次へ戻る

おわりに―「天の気」を身体いっぱいにとり込んで

晴れた日、青空を見上げてください。青い空の一点に目を凝らして見ると、小さな小さな光の粒が、天空にキラキラと乱舞しているのが見えることでしょう。

もし目を凝らした視界の中に、まるで顕微鏡で見たゾウリムシのように黒くゆらゆらと動き回っている影が見えたら、それは、あなた自身のまつ毛の先っぽです。その黒い影はまたたきすればするほど動くいちがいありません。

でも、その向こう、青い空中をじっと見つめてください。

またたきするのをこらえて、じっとじっと。

ほら、キラキラとした光の粒が無数に見えてきたことでしょう。小さな小さな光の粒がキラキラ、キラキラと明るい光の中で輝いているはずです。

それが「天の気」です。

「天の気」は、私たち誰もが、天から受けられる「気」です。

「気」は、いつものこの宇宙空間にあふれています。「気」とはエネルギーです。宇宙には絶えず新しいエネルギーが循環しています。「地の気」「樹の気」「火の気」など、この世を形づくっているものすべて「気」が循環しています。

そのなかでも「天の気」は、いちばん私たちの身近な「気」といっていいでしょう。

なぜなら、見上げれば、天はいつでも私たちの頭上に広がっているからです。

私は毎朝お経の後、「天の気」を受けるために散歩をします。のぼったばかりの太陽の光の中を歩いていると、私の頭上から「天の気」がキラキラと降り注いでくるのを全身で感じることができます。

散歩道の途中の公園で立ち止まり、「天の気」を私の身体の中いっぱいに取り込みます。フッフッと力を入れて呼び込むたびに、「天の気」が私の身体の中にフッフッと入ってきて、私の全身を温かく満たしていきます。私の身体の中に、新しいエネルギーがみなぎってくるのがわかります。

さあ、今日も一日、がんばろうという意欲がわいてきます。

私は毎日、たくさんの患者さんに接して、たくさんのエネルギーを使っています。私の体内をめぐる「気」を使って患者さんの身体と対話し、その声を聞き取っています。

「気」は出すばかりではなく、常に補充しないといけません。毎日、新しいエネルギーに満ちた「気」を取り込んで、私の「気」をいつもベストコンディションにしておかなければ、患者さんの心と身体を癒すことはできません。

患者さんの身体の中にも「気」は流れています。患者さんの中には、自分の身体をめぐっている「気」の存在を自覚していない人も多いのですが、誰の身体の中にも「気」は流れているのです。

そして、患者さん自身の治りたいという「気」と、私の治してあげたいという「気」がうまく呼応したとき、患者さんのさまざまな痛みや不調が消えていきます。

患者さんが「ああ、ラクになった」という表情をするとき、あるいは私の手に、それまであった「痛い」「悪い」という反応が消えたとき、私は心の底からうれしくなります。私の「治してあげたい」という心と、患者さんの「治りたい」という心とが交流し、呼応し、よい結果がでたのです。

「気」は「心」そのものの現れなのです。心の強いイメージの現れです。

目には見えない世界を、見えないから存在しないと決めつけてはいけません。

否定してはいけません。あなた自身の世界を小さくしてしまいます。それはとてももったいないことです。

心を開いて見つめてください。見たいと念じて目を凝らしてください。

そうすれば、やがて見えてくるでしょう。まるで「天の気」があなたの目に見えてきたように、キラキラと輝いて、あなたのまわりに無限に降り注いでいる宇宙のエネルギーが実感できるにちがいありません。

どんなことでも否定しているうちは未熟なのです。

心を開いてみましょう。見えない世界が見えてきます。

見たいと念じてください。やがて、あなたが見たい世界が見えてきます。

念じて 念じて 念じて

念じてもらったありがたさを

初めて気づく きょうこのごろ

私とあなたのあいだに

見える 見える

仏さまが見える

こわがらず やってみよう

おそれず やってみよう

つまづけば、立って歩いてみよう

最後までがんばろう

あのつまづきは 仏さまのお慈悲と思えるまで

がんばろう

かげがえのない私の人生は

これからも 変わる

どこまでも変わる

この本の中に、現在の私の思いのすべてを書きました。

そして今、書き終えて、両親はじめ私を支えてくださった皆さまには感謝の心で一杯です。 とくに今回、現代書林の皆さま原稿を書く手伝いをしていただいた遊佐昭子さんには心からお礼を申し上げたいと思います。

まだまだ未熟で、試行錯誤の毎日です。これからも一生、勉強だと思っております。

一生……

合掌

一九九六年八月二〇日